「お笑い芸人」という肩書きが好きだ。
一昔前は、お笑いはテレビか劇場でしか披露する機会がなかった。だから、テレビに出ること、あるいは舞台に立つことが「お笑い芸人である」こととほぼイコールだったんじゃないかと想像する。
でも今は違う。テレビ以外にも、お笑いを披露できる場所はある。YouTubeにネタをアップする芸人さんは少なくない。Xを大喜利会場として活用している人もいる。ラジオ、学園祭、エッセイ、ゲーム。どんな場所であれ、メディアであれ、人を笑わせるから「お笑い芸人」だ、という理屈は非常にわかりやすく、潔い。
「研究者」という肩書きにも似たような精神を感じる。個々の研究分野はきわめてニッチであり、そして多岐にわたる。にもかかわらず、未知の何かを「究め、研ぎ澄ます」というただその一点を指して「研究者」を名乗る。とてもかっこいい。研究という行為に対する誇り、あるいは矜持のようなものを感じる。
反対に、たとえばゲーム業界では、ゲームという巨大な船の「どの部品をつくるか」で職種が分かれている。ゲームの仕様をつくる人はプランナー、音をつくる人はサウンドデザイナー、プログラムを書く人はプログラマ、画像をつくる人はグラフィッカといった具合だ。もっと細分化されているケースも少なくない。
個人的には、「お笑い芸人」とか「研究者」みたいな、どちらかといえば「抽象的な」肩書きに憧れる。誰かを笑わせるために、あるいは未知の神秘を追究するために、あらゆる手を尽くして困難に立ち向かう。手段は問わない。向かう先はぼんやりとしている。
特に、研究なんてものは、向かう先が最初から見えていることのほうがレアである。これをすれば、この結果が得られる、ということが最初からわかるケースはまずない。これをやってみたらよさそうだ、ということがなんとなくわかる程度で、やってみるがうまくいかず、その結果をもとに多少軌道修正をして、今度は少し違うやり方を試してみる。そういう地道な試行錯誤を重ねて、ようやく、方向性らしきものが見えてきて、なんとか「成果」といえるようなものに、やっとたどり着く。
お笑いも似たところがある。これをすれば絶対に受ける、というものはない。そんなネタがあったとしても、数回繰り返せばたちまち飽きられる。だから、常にネタを磨いていかなければならない。それは必ずしも「洗練させる」ことを意味しない。洗練とは、今あるものをより具体的に、ピンポイントに尖らせるようなイメージがある。でも、そもそもの方向性が間違っていたら、いくら磨きをかけたところでお客さんは笑ってくれない。やはり、軌道修正が必要なのだ。
ものごとを大局的に、抽象的に見ることは、お笑いでも研究でも大事なことだと思う。具体的なものは、語りやすい。いわゆる「共通言語」になる。M-1のファイナリストは誰が面白かったとか、今年のノーベル賞はどういう研究だったとか、具体的なものは話題にしやすい。でも、それはどちらかといえば、消費者、言い換えれば「外野」の視点である。
舞台に立って人を笑わせる。頭を使って未知の難問に挑む。どちらも、やってみればわかる。目の前にはただぼんやりとした世界のみがある。これをすればよい、というわかりやすい指標はない。正解などないし、そもそも、何を問うべきかもわからない。誰もなにも教えてはくれない。ただ、漠然とした、「こっちになにかありそうだ」という予感だけがヒントになる。
ふと、『容疑者Xの献身』という映画を思い出した。東野圭吾の『ガリレオ』シリーズの劇場版で、石神という数学者が登場する。石神は「数学と山登りは似ている」というようなことを言っていた。実際、主人公の湯川と石神が雪山に登るシーンがある。映画を観た当時は、その意味がよくわからなかった。数学と登山になんの関係があるのか、と。でも、今はなんとなくわかる気がする。具体的に説明してほしい? 残念ながら、それはできない。抽象的な概念は、説明を聞くだけではたぶん、理解できない。抽象的なものを理解するためには、具体的に行動しなければならないということがだんだんわかるようになってきた。
もし、この文章が抽象的過ぎて理解できなかったのなら、ぜひ一度お笑いの舞台に立ってみることをおすすめする。M-1も、キングオブコントも、エントリーするだけなら誰でもできる。少しお金を払うだけで、お客さんの前で舞台に立てる。そして、思いっきりネタをやって、滑ってみてほしい。そうすれば、たぶん、多少は理解できるはずである。少なくとも、大学院に入り直すよりかは簡単だ。もちろん、大学院に入るのも良いと思う。ちょっとやってみるだけで、見えないものが案外見えるようになったりする。そういうものが「勘」と呼ばれたりするのかな? わからない。この文章も勘で書いている。