キャラクターに自分を投影しない

池田大輝
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公開:2026/2/18

よく、フィクションを読んで「作者の思想が滲み出ている」と言う人がいるだろう。あれは、キャラクターと作者を混同している。キャラクターの言葉はキャラクターのものであって、作者のものではない。

とはいえ、思想や主張をキャラクターに代弁させる作家も少なくない。この作品では自分のすべてを曝け出した、と豪語する人をよく見かける。気持ちはわからなくもない。

けれど、私の場合、キャラクターに自分を投影することはない。理由は簡単で、そのようなモチベーションで創作をしていないからだ。物語を介して世界に訴えたいことなどない。ただ、つくるべきものがそこにあるから、つくっているに過ぎない。

物語を書いている最中に、キャラクターに共感することはある。ああ、その気持ちわかるなあ、とか。共感できないことも多い。そもそも理解できないこともある。そういうときに、キャラクターを自分に寄せにいくのか、はたまた、わからないものはわからないままにしておくのかは、作家性のうちに含まれるだろう。

私は、キャラクターにできるだけ干渉したくない。彼女たちの物語は彼女たちのものであり、私はそれを語っているに過ぎない。この態度は、私が理系であることも影響しているように思う。実験をして、思うような結果が出なかった場合に、結果を書き換えたり、うまくいったケースだけを恣意的に取り出す(チェリーピッキングと呼ばれる)行為は、研究倫理違反である。望まない結果だとしても、客観的に記録しなければならない。そして、なぜうまくいかなかったのかを考え、計画を修正し、再度実験する。これが科学研究だ。

もちろん、物語の書き方に正解はない。他人の権利を侵害しない、くらいは最低限のルールだろうけれど、それ以外は自由だ。だから、キャラクターを恣意的に操作してはだめだ、という法はない。キャラクターに自分を投影しない、というのは、あくまで私のポリシーに過ぎない。

ただ、物語を書くようになってから、明らかに人生が変わった。他人の声に耳を傾け、尊重するということを知った。それまでも、知っているつもりではいたけれど、たぶん全然できていなかった。物語を実際に書いてみて、それがどういうことかわかった。現実の人間と違い、物語のキャラクターは、自分で勝手に喋らない。作者である私が耳を傾け、その声を聴き取る必要がある。これが、良いトレーニングになった。

いまも物語を書き続けていられるのは、それが楽しいからだと思う。キャラクターの声なき声を聴いていると、思わずはっとさせられることがある。今まで知らなかった考え方や価値観に出会うことができる。それは、私が生み出した言葉ではない。まるで、誰かと会話しているみたいなのだ。ただし、聴き手はサボってはいけない。常に耳を傾け、適切に質問を投げかけ、そして、相手を尊重する。そうしているうちに、いつの間にか物語が完成している。

さらに言えば、このエッセィに書いている、まさにこの言葉さえも、私の言葉とは言い切れない。エッセィを書いているときの私は、普段の私と少し違う。たとえば、私はいま「これを書き終えたら、マックのポテトLを食べよう」と思っているけれど、そんなことは書いていない(書いたが)。つまり、そういうことである。キャラクターのセリフも、エッセィのタイトルも、私の主義主張とは関係がない。あるいは、そこにメッセージを見出しても構わないし、あなたなりの物語を構成したって構わない。それは、ある意味では、私がやっているのとほとんど同じことである。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。毎日21時頃にエッセィを更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink