性別に縛られたくないと思うようになった

池田大輝
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私は性別を公表していない。あえて隠すつもりはないけれど、性別についてとやかく言われることを好まない、と思うようになった。

性犯罪のニュースが日々、目に入る。トータルの数としては昔よりも減っているはず。倫理的に正しい考え方をする人も増えたように思う。全体としては良い方向に向かっている。

それでも、性被害に遭う人が少なからず存在することは事実だ。その人が味わわされた屈辱や痛みはトータルの性犯罪件数とは何も関係がない。そのようなニュースを見るとなんとも言えない気持ちになる。「加害者を糾弾しない奴も性犯罪に加担している」と怒る声もある。一理あると思う。でも、私は私なりのやり方で性加害に反対している。具体的なことを言うつもりはない。できることをやっているだけだ。性加害はろくでもない、なんてわざわざ言うまでもないことである。

性加害、性被害には明確な非対称性があって、被害者の多くが女性だ。私はそのような被害に遭ったことがほとんどないから、被害に遭った人の気持ちを理解することは容易ではない。もちろん、人それぞれに抱いている感情や抱えているトラウマは違うはずだから、一概にこうだ、と決めつけるのは不適切だと思う。それでも、やはり、如何ともし難い無力さというか、自分になにができるのだろう、ということを思ってしまう。良かれと思ってなすこともまた性加害になりうる。じゃあなにもせずに、誰にも一切関らずに生きるのが正しい? どうすればいいのか? そのような逡巡を巡らすことが、増えた。

性別に縛られずに生きたい、という願望に、眉を顰める人もいるだろう。ある意味で「逃げ」だ、という後ろめたさもある。でも、性別、いや、それを取り巻く社会のくだらないステレオタイプに押し込められるのは嫌だ。そのように感じている人はきっと少なくないと思う。女に生まれてこなければ、と思う被害者もいるだろう。その言葉の重みは人それぞれ違う。他人の人生を生きることはできない。他人の痛みに胸を痛めることはできるけれど、それを取り除くことはできない。こんなにも無力か、と絶望する。しかし、絶望していてもなにも変わらない。なにができるのかを考え、実行するしかない。性別がその足枷となるなら、いっそ捨ててしまいたい、と思うのはわがままだろうか。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink