早く夫婦別姓が選べるようになればいいのに、と思う。自分の姓を変えたいとはあまり思わないし、それ以上に、相手の姓が変わるのが嫌だ。
姓は、名前の半分を占める。池田大輝の半分は池田である。この姓、あるいは姓に紐づいた歴史や血統にはなんの興味もない。けれど、姓も含めた池田大輝という名前は、私を端的に表すほぼ唯一の代名詞である。
恋愛ゲームをつくっている人間はそれなりにいる。イラストとシナリオの両方を手掛ける人はかなり少ないだろう。プロの声優のフルボイスにこだわっている人はさらに限られるかもしれない。ジャルジャルとコントをしたことのある人は、ほぼいないと思う。
そうやって、アキネーターみたいに、複数の属性の掛け合わせでその人を特定することはできる。けれど、人間は、属性の寄せ集めではない。恋愛ゲームをつくり、イラストもシナリオも手掛け、声優を起用し、ジャルジャルとコントをするロボットがいてもおかしくはない。それでも、そのロボットは私ではない。ロボットがいくら私の行動を、思考を、思想を模倣したところで、ロボットはロボットであり、私は私である。
それを証明するもの、いや、ただあるがままに肯定するもの、それが名前だ。名前のもとで、私は私であり続けることができる。もし名前を喪ってしまったら、どうやって生きていけばいいのか、想像できない。それは、人生のパートナーについても同じ。愛する人の名前が変わることは、由々しき事態である。その人を指し示すシグネチャの半分が書き換えられてしまう。それは嫌だ。その人がその人でなくなってしまうような気がする。
名前とは、それくらい大事なものだ。少なくとも私にとっては、愛する人の名前は、その人と同じくらい大切だ。どのような人と結婚するのか、そもそも結婚するのかどうか、今はまだわからない。けれど、そのような未来があるのだとしたら、せめて名前くらいは、ありのままに愛させてほしい。