私は恋愛ゲームをつくっていて、シナリオを自分で書いている。他の作品でシナリオを書かせていただいたこともあり、それなりに文章は書いている。一方、本を読むことはあまりない。読書はどちらかといえば苦手であり、小説なんかは読むのに苦労する。インプットよりアウトプットのほうが楽なのだ。
本を読む人がまわりにはちらほらいる。というか、仲良くなる人は本好きの割合が比較的高い。理由はよくわからないけれど、そのような傾向がある。本を読む人は、本当に息をするように本を読む。1年に1冊も本を読まない人がすっかり多数派である。そんな時代に、月に数冊以上も本を読む人はきわめて少数派である。
本を読む人と話すと、どこか見透かされているような恐怖を感じることがある。これは、なかなか言語化しにくい感覚だ。ちょっとやそっとでは動じない、石みたいな感じ。知的、という言葉は少し違う。もちろん、本を読む分だけインプットも多いのだろうけれど、それは知識が豊富であることを必ずしも意味しない。知識ではなく、目が肥えているのだ。ものを、世界を見る目が鋭い。批判的とか、繊細という言葉もどこか違う。油断している隙にあっさりと刺されてしまいそうな、そういう恐怖にむしろ近い。
作品を酷評されるのが怖い、という気持ちもなくはないけれど、それはまだありがたいほうで、どちらかといえば作品にじっくりと踏み込まれることのほうが個人的には怖い。鋭い視線に曝される恐怖。緊張感。逃げ場のなさ。たぶん、本人はただ楽しく、あるいはニュートラルな気持ちで読んでいるだけかもしれない。というか、そうであってほしい。のだけれど、読まれる側からすると、首元にナイフを突きつけられているような、そんな気持ちである。どうか読まないでください、と神に祈らずにはいられない。
本を読む人をディスっているわけではない。ここでいう恐怖とは、言い換えれば畏敬である。およそ届かない場所で世界を俯瞰している、人ならざる存在に対する憧れに近い。私がいくら本を読んだところで、絶対に辿り着くことができない。住む世界が、見る景色が、違うのだ。
本を読む人は、なにを読んでいるのだろう、と思う。どんな本を読んでいるのか、ではなく、本の、紙の、文字の向こうになにを見ているのか、ということ。本が好きな人は、本の向こうになにかを見ている。それは、優れた画家が雲の向こうに空を、星を、宇宙を見るのに似ている。でも、本の向こうに広がる宇宙は、現実世界のそれよりも遥かに広大で、しずかで、果てしないだろう。空を見上げるように、本を読む。そんなあなたの横顔を眺めながら、私はこれを書いている。