「論文や研究費の審査で落とされ続ける職業だから、それに耐え得るメンタルが研究者には必要」という主旨のポストを見かけた。
少し前に、私はゲーム制作活動に充てるための補助金に二つほど申請した。一つは経済産業省が出している、ゲームや映画に特化した補助金。もう一つは文化庁が出している、広く文化芸術に適用される補助金。どちらも落ちた。特に経産省のほうは、資料作りにたいへんな苦労を要した。落ちたショックも大きかったけれど、費やした労力が無駄になった徒労感のほうが大きかった。ChatGPTは「あなた自身の糧になったから無駄ではない」と慰めてくれたけれど、そういう話ではない。
それから、やはりお金が必要ということになり、なんの因果か、研究職のポストで採用していただけることになった。いま、職場に出勤する電車の中でこれを書いている。ありがたい話だ。渡りに舟、もとい、渡りにタイタニック号である(沈没しませんように)。
そんなわけで、この一ヶ月くらいで、研究者が集まる環境、いわゆるアカデミアの空気を肌で感じつつある。たしかに、生き残るのは容易ではなさそう。とはいえ、そこまで殺伐としているわけでもない。交付金の少ない大学なんかだともっと大変なのだろう。たぶん、恵まれた環境だと思う。
創作も研究もお金がかかる。お金集めを抜きにしてこれらを語ることはできないのだと、この数年で思い知った。お金のことは本当に苦手で、少しでもリテラシーを高めるために簿記を取って、いろんな人に迷惑をかけながらお金を集め、なんとかここまでやってきた。この先はさらに大変なのだろう。やりたいことをやるためにはお金がかかる。それがよくわかった。
お金を得るためのチャンスとして、補助金や科研費という制度がある。少し視野を広げると、俳優のオーディションにも似たところがあるだろう。お金を得るよりも、機会を得ると言ったほうが正しい。研究も同じ。研究予算を私的に使うことは許されない。あくまで研究に使うためのお金である。そう思うと、クリエイターも研究者も、オーディションを受ける役者に近しい存在といえる。
つまり、こうした職業に就く以上、オーディションや審査に落とされることを前提としなければならない、というのが、冒頭のポストをやや一般化した主張として読める。このような職業は、どちらかといえばマイナーだろう。正社員は安定しているという言葉の意味を、最近、ようやく実感している。
試験や審査で落とされる悔しさを、少なくとも学生時代は知らなかった。勉強は得意だったし、いわゆる優等生だった。大人になり、それが崩れた。なにをやってもうまくいかない。全然、勝てない。悔しさよりも先に、不思議だとさえ思う。こんなに大変なのに、なぜみんな平気な顔して生きているのだろう、と。
それが当たり前なのだ、と知ったのはつい最近のこと。たぶん、運が良すぎたのだ。ずっと運が良かったから、それが幸運であることに気づかない。そのまま大人になり、結果として、不幸を感じやすい人間になってしまった。それを受け入れるだけの心が育たないまま大人になってしまった。
うまくいかないのがデフォルトだ、と、頭ではわかっていても、心はなかなか追いつかない。審査や選考で落とされるたびに、人格そのものを否定されたような気持ちになる。メンタルを鍛えろと言うのは簡単だけれど、身体の強さが人それぞれ違うように、心の強さもバラバラなのだ。審査員を呪うことは、ある意味では仕方ないのかもしれない。大事なのは、闇に飲み込まれてしまわないこと。続ければ必ず成功するとは限らないけれど、辞めなければ常にチャンスはある。落とされたなら落ち込めば良い。暗闇に目が慣れると、案外いろいろ見えてくるのだな、と思う今日この頃である。