理解できなくても味方にはなれる

池田大輝
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公開:2025/9/14

その人がなにを考えているのか全く理解できない人がいる。きっと、誰しも心当たりはあるだろう。あるいは、そもそも、他人を完璧に理解することなんてできないのかもしれない。私たちが他人とコミュニケーションできるのは、同じ言葉をしゃべっているからであって、同じことを考えているからではない。「おはよう」の意味を理解せずとも「おはよう」と言うことはできるし、「おはよう」に「おはよう」と返すこともできる。

私たちは、たぶん、他者というもの過信している。私が相手を「理解」できるのとせめて同じ程度には、相手も私を「理解」してくれるだろうと無意識に期待している。社会とは、そうした錯覚、あるいは、言い換えれば、幻想によって成り立っている。

本当の意味で他者を理解することはきっと、できない。でも、理解できなくても、いや、理解できないからこそ、他者を想うことができる。他者を想うことは、他者を理解することよりもさらに意味不明だ。

他者理解は、一度きりのものだ。その人を理解すれば、以降はその人について考え続ける必要はない。テストに合格した翌日には、暗記した公式など忘れてしまう。

他者を想うことは、永遠に続く。その人の存在が、自分の中に永続化される。どんなときもその人のことを想って止まない、というのは極端な例で、恋と呼ばれたりするけれど、普通はもっとゆるやかで、穏やかなものだ。

それがもう少しだけアグレッシブになると、「味方」になる。その人を理解しているわけでも、その人に恋しているわけでも、その人について四六時中考えているわけでもない。ただ、なんとなく、その人のことが嫌いよりかは好きで、あるいは、嫌いだけれど、なぜか応援したくなる。と書いて、恋となにが違うのかわからなくなった。誰かの味方になることと、その人に恋することの違いはなにか?

少なくともいえるのは、恋とは、その人を理解するかどうかに無関係である、ということ。およそ理解できない相手に恋することだってできる。あるいは、理解できないからこそ、好きになるのかもしれない。理解できないからこそ、もっと知りたくなるのかもしれない。理解できないからこそ、傍にいたくなるのかもしれない。

味方がほしいとずっと思ってきた。冷静に考えると、私の味方でいてくれる人はたくさんいる。言葉でも、形でも、たくさん受け取っている。本当にありがたい。それを素直に受け取れないのは、明らかに私の問題である。でも、どうすればいいのかわからない。私は私を理解できない。理解できないけれど、生きている限り、私は私と付き合っていかなければならない。私は私の味方でなければならない。きっとそれは、誰かの味方になるための、必要条件なのだと思う。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。毎日21時頃にエッセィを更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink