稚拙?で未熟?で幼稚です!

池田大輝
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大人になるということをとっくに諦めている。年齢的には立派な大人だけれど、大人である、という自覚はない。もちろん、他人との関わりの中で相応の責任を果たそうと努力はしているけれど、それはその人との関係においてのみ生じる話であって、私(あるいは相手)が大人であるかどうかは関係がない。子供相手だろうと、なすべきことは変わらない。

みんな、大人っぽく見える。昔からそうだった。いつか追いつけると思っていたけれど、それは幻想だった。みんな、大人として、社会人として、強く、逞しく生きている。少なくとも私からはそう見える。そんなことないよ、と言うかもしれない。でも、結婚し、子供を育てている人も多い。大人でなければ、そんなことはできないだろう。

大人になれないことがコンプレックスだった。けれど、最近は少し認識が変わりつつある。子供っぽいことは必ずしも悪くはない、と思えるようになってきた。

創作は私の人生そのものであり、だから、仕事にしている。夢とかそんな大層な話ではなく、それが効率的だからである。創作において新しいことは重要だ。少なくとも私はそう考えている。特に、AIが発達している昨今ではなおさらだ。AIは過去のパターンをよく知っている。かつて流行した傾向に従って文章やイラストを生成する。しかし、新しいものを生み出すことはAIにはできない。これはAIを支えるアルゴリズムの原理的な限界によるものだ。天気予報が未来の天気を完璧に予測することができないように、AIは完璧に新しく斬新なものを生み出すことができない。

新しいものを生み出すことは簡単ではない。過去に成功したものをなぞるほうが遥かに簡単であり、それが方法論として語られることさえある。しかし、方法論から新しさは生まれない。新しいものは、全くの無から生まれる。あらゆる知識や前提を放棄した更地から、誰も思いつかなかったような方法で、新しい創造の種が芽を出す。どのような方法か、とAIは問うだろう。その問いがすでに間違っている。新しさを生み出す方法などない。方法論に従う時点で、過去に囚われている。全く未知の未来に飛び込む勇気、あるいは言い換えれば、それを恐れない幼さこそが、真の新しさを世界にもたらす。

稚拙であれ、未熟であれ、幼稚であれ。と森博嗣先生は仰っている。つまり、この文章で書いたことは森博嗣先生の受け売りであって、新しさはない。大人にもなりきれず、子供でもいられない。それでも日々、創作をしている。こんな私でも、一応、プロとして頑張っている。やれやれ。素人臭くてごめんね。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink