無事アメリカはワシントンD.C.に到着した。いま宿泊先のホテルでこれを書いている。日本の外に一歩でも足を踏み出すのは今回の旅が初めてだ。今のところ、大きな問題はない。
なんだかドキドキしっぱなしだった。日本でのほほんと暮らせることが、いかに恵まれた環境であるかを思い知らされる。よほどのことがない限り、これからも日本で暮らすだろう。海外旅行自体は、それなりに気をつけさえすれば、楽しいものであることがわかった。次は北欧かイギリスに行ってみたい。アメリカよりもお金がかかりそうな気がするけれど。
そうだ。今のうちに書いておくと、海外に行って世界の見え方が変わった、などと言うことは絶対にないと断言できる。なぜなら、そこが海外だろうとなかろうと、フィクションの世界のほうが現実世界よりも遥かに大きいからである。私は映画が好きだ。観るのも撮るのも好き。映画の中では、現実では絶対に起こり得ないことが起こる。創作者視点で述べるならば、現実には絶対に起こり得ないことを起こすことができるといえる。ジェームズ・ボンドもターミネーターもアベンジャーズもこの世界には存在しない。
フィクションにのめり込みすぎて、現実世界での生き方を忘れてしまうのは私の良くないところでもある。世界との接点を見失ってしまうのだ。世界を過度に抽象化してしまう。要するに、生きるのが下手なのだ。
だから、現実世界との接点を媒介してくれる相方のような存在が必要なんだと思う。一般的にはパートナーとか結婚相手に相当するのだろう。そんな役割を背負わされても困る、と尻込みされそうだけれど、とはいえ、その人には常にそばにいてもらう必要があり、したがって、AIや秘書には任せられない。
でも、考えてみると、創作はそれ自体が媒介行為である。創作は頭の中の仮想世界だけでは完結せず(別にそれがだめなわけではない。ただ純粋な妄想だけで生きるのも一興だろう。個人的にはそれで満足できないという話)、何か形にする以上、現実に働きかけなければならない。とにかく手を動かせとは、そういうことである。
媒介者。世界と世界を繋ぐ人。そういうものに興味がある。私はたぶん、その素質があるのだと思う。現実世界への適合度がちょっと低いことに目を瞑れば、全く異なる二つの分野に橋を架けることは好きだし、得意だと思う。そして、自分とは違うやり方で、似たようなことをやっている人に興味がある。たとえば、役者は、まさにフィクションと現実を繋ぐ存在である。
なんだか話が大きくなってしまった。飛行機や空港でお酒を飲んだからだろうか。酔うと話が抽象的になる。個人的には抽象的な議論は好きだけれど、多くの読者にはつらいだろう。というわけで、これくらいにしておく。いま東海岸は深夜2時を回ったところ。朝8時に投稿すれば、日本時間ではいつも通り21時に公開されるはず。なんだか、世界は広いのか狭いのかよくわからない。アメリカにいるからといって、特に心情に変化はない。では、何が人生に変化をもたらすのかといえば、すでにこのエッセィに書いたとおり。要するに、愛である。