日々こうしてエッセィを書いておきながら、他の人が書いた文章を読むことはあまりない。というか、このように書き続けている人はほとんどいない。だから、たまに誰かがエッセィや日記のような文章を書いているのを見かけると、少しドキドキしてしまう。
今日、松屋で牛丼を食べながら、その人の日記を読んだ。面識はなく、一方的にほんの少しだけ知っている。内容はここには書かない(当然である)。まるでその人の人生を覗き見ているような、罪悪感というか、背徳感というか、そんな気持ちになった。きっと自分を曝け出すことに慣れている人なのだろう。自分を曝け出すことは、簡単なようで難しい。ほとんどの人は自分の「心の裸」を見たことがない。愚痴や不満を吐き出したとして、それが「裸」であるとは限らないからだ。
上手い文章は、まるで裸に見える。これは日記やエッセィ以外にも当てはまる。フィクションなのに、作者自身の体験談にしか見えない作品があるだろう。新海誠監督は、まさにそんな作家だと思う。見てはいけないものを見ているような気がする。観客を勘違いさせると言い換えても良い。作家が本当に裸を見せることはまずない。三島由紀夫が切腹したのだって、あれはパフォーマンスであり作品だと思う。良い作品をつくるためなら、あそこまでやってしまうのだ。
自分を曝け出すことは怖いし、死ぬことはもっと怖い。だから、ほとんどの人はわざわざそんなことをしない。わざわざそんなことをするのが作家という人間である。創作で生きていこうだなんて、ほとんど自殺行為である。それをわかっているくせに、やめるわけにはいかないのだ。
その人の日記を読んで、私のエッセィもそんなふうに見えているのかな、とふと思った。まあ、私は猫を被っているから、あまりドキドキしないと思う。というか、裸ばかり見ていても飽きるでしょう。だから、あえてチラ見せ程度にとどめている。あなたにはドキドキし続けてほしいのです。