私は生粋の理系である。数学と理科が得意で、国語と社会は苦手。社会は暗記すればなんとかなるとして、国語はそもそも文章を読むのが苦痛だった。本を読むこともあまりなく、作文に至っては壊滅的で、中学校の卒業文集に寄せた文章は「全然面白くない」と酷評された。
このように文章を書くようになったのはつい数年前のこと。思い立ったように恋愛ゲームをつくり始め、自分でシナリオを書いた。昨年リリースした『さくらいろテトラプリズム』のシナリオの文字数は約30万文字。文庫本2〜3冊に相当する。加えて、外部作品や他作品でもシナリオを書いた。没になった分なども含めると、この2年で100万文字くらいは書いたのではないだろうか。このエッセィも、毎日更新を目指して1ヶ月ほど前から書き続けているけれど、全然大変だとは思わない。空いた時間に適当に書き溜めている。国語も作文もずっと苦手だったけれど、書いてみれば案外書けるものだな、と思っている。
ただ、なんというか、私は自分のことを文学的な人間だとは全く思わない。そもそも文学とはなにか、全然わからない。少なくともこのエッセィは文学ではないし、つくっているゲームも文学だとは思っていない。文学とは、たとえば夏目漱石のことであって、漱石を読むような人が文学的であると私は思っている。もちろん、漱石じゃなくてもいいけれど、ニュアンスの話である。
本を読む人は、息をするように本を読む。本当にすごいと思う。そのような人たちが、沈みかけている出版業界をかろうじて支えていると言っても過言ではない。本人にとってはごく自然なことかもしれないけれど、そもそも、本を読む人はマイノリティである。まして、月に数冊以上をさらさらと読む人は極めてレアだ。素直に感心する。すごいとしか言いようがない。
昔、本を読む人に憧れていたことがある。特定の誰かではない。どこか、違う世界に住む人のように見えていた。その思いは今もあまり変わらない。息をするように本を読む人は、自分とは全然違う世界に生きている。そのような姿は、文学的だな、と思う。その人が作家であるかどうかは関係ない。作家もそれはそれで文学的だと思うけれど、どちらかといえば、生産者よりも消費者の側に「文学」を感じてしまう。
きっと、それは、写真に近い。現実世界は誰にとっても同じだけれど、写真は誰が撮っても違うものになる。世界を創ったのが神だとすれば、文学的なのは神ではなく世界を切り取る人である。
文学とは、たとえば、それを文学だと思う心、と定義するのはどうだろう。少なくとも私は、書くことよりも、読む人のほうが文学的だと感じる。書くことは、多少の技術を習得すれば難しくないけれど、読むことは誰にでもできるわけではない。同じ景色を同じように写真に収めることはできない。その人のレンズを通過した世界がそこにはあって、それは幻想的で、不可侵で、唯一的な世界である。これは、科学とは正反対の姿勢だ。科学は完全ではない。文学は、それをよく知っている。
本を読む人が、自分でも書いてみようと思うケースは多くはないらしい。たしかに、そうだとすれば、出版社は作家に原稿を依頼する必要はない。文章を書くことと、それを読むことには別の難しさがある。というか、ほとんど別物であるとさえ思う。いくら文章を書いたところで、文学的な人間になれるとは全然思わない。すぐ隣にあるのに、触れることができない。片思いの相手と同じくらい、文学的な人というものは得体の知れない存在である。