1年の勉強よりも1日の労働が苦痛

池田大輝
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高校受験。大学受験。大学院受験。それぞれ、それなりに勉強したはずだけれど、大変だった記憶はほとんどない。そもそも、勉強を苦痛だと思ったことがない。楽しかったか、と訊かれると一概にそうとはいえないけれど、でも、投げ出したいとか、自分には合わないと思ったことは一度もない。

反対に、社会人になってからの日々は苦痛そのものだった。やらなければならない仕事があって、それをこなす。ただそれだけのことが、本当に苦痛だった。仕事の内容が合う合わないというのは些細な問題であって、なんというか、仕事というものを身体が拒絶している感じがした。そもそも、仕事とはなんなのか、理屈では理解していても、身体がそれを受け入れない。

仕事において、余計なことをするな、と怒られたことが何度もある。指示されたこと、やるべきことをやらず、どうしても他のことをしてしまう。スキル的には充分できるはずなのに、できない。雇用主から見れば、不思議な光景だっただろう。私も不思議だ。まずはやるべきことをサクッと終わらせて、その上で提案をすべき。それくらいはわかる。でも、できないのだ。

学生時代を振り返ってみる。たとえば、夏休みの宿題なんかは、やらなければならないこと、言い換えれば、学生にとっての「仕事」そのものだった。そして私は、当時から仕事が苦手なタイプだった。夏休みが終わるギリギリまで先延ばしにして、直前になって泣きながら宿題をこなす。でも、なぜか、当時はそれができていた。それはたぶん、「仕事」以外に「自由に」やっていい課題があったおかげだ。

夏休みの自由工作が好きだった。「自由」という点がポイントである。なぜかみんな、自由なはずの工作で「何をすべきか」を求めていた。自由だからこそ楽しいのではないか、と当時から思っていた。自由だから、何をやってもいい。そこにこそ楽しさがあるのだろう、と。できるだけ「贅沢に」自由を行使した。先生を戸惑わせたこともあるけれど、そういうときは他の先生が褒めてくれた。やらなければならない宿題は、多少、うまくできなかったところもある。でも、それを帳消しにする「自由さ」で学生時代を乗り越えてきた。

勉強は、自由だ。勉強しすぎるということはない。むしろ、余計なことを勉強すれば、それまでただの暗記だと思っていたものが実は理論で説明できることがわかって、より深く理解できたりする。余計なことを学べば学ぶほど楽しいし、その結果、テストの点数も伸びる。良いテストはそのように設計されている。最悪、暗記だけで解けるかもしれない。でも、たくさん勉強した人にはボーナスポイントが加算される。大学の課題はそのようになっていることが多かった。大学では、中学、高校ほど真面目に勉強しなかったけれど、そのような「余計さ」を評価してくれるシステムのおかげで留年せずに済んだ。余計なことをすればするほど評価される。学びという環境のこうした性質は、私に非常に合っていた。

余計なことが仕事になる。そのような職場が私の理想だ。というか、そうでなければ、まわりに迷惑をかける。仕事をしなければ生きていくことができない。だから、生きていくために、そして尚且つ、他人に迷惑をかけないという最低限のラインを死守するために、そのような仕事を探さなければならない。そんな仕事がこの世に存在するのだろうか。心当たりのある方は、ぜひ私にご紹介ください。割と切実に困っています。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink