よく「キャリアは掛け算だ」みたいなことを言う人がいる。たとえば、ただの看護師だと数が多すぎて埋もれてしまう。ここにハンドメイド作家を掛け合わせると、看護師でありハンドメイド作家でもあるような人の数はかなり減る。さらにYouTuberが加わると、似たような人はほぼいない。このように「看護師×ハンドメイド作家×YouTuber」と名乗ってしまえば、唯一無二の人材になれる、という仕組みらしい。
まず、気になるのは、そのような看護師の需要がどこにあるのか、という話。仕事は需要がなければ成り立たない。需要を見つけるか、自分でつくり出すしかない。それか、仕事として成立させることは諦めて、ちょっと面白いキャラの看板として使うくらいか。ちょっと面白い、というところが残酷で、なぜかキャリアを掛け算したがる人が大量にいるせいで、多少の物珍しさでは見向きもされなくなってしまった。「公務員×VTuber」くらいでは全然だめだろう。世間が公務員の副業に寛容になったと思えば微笑ましいことだけれど。
あとは、誰のために掛け算するのかという点も気になる。おそらく多くは、キャラクターとしてのキャッチーさや珍しさを求めて、つまり営業活動として名乗っているのだと思う。ただし、さっき書いたように、よほどの珍しさでなければ通用しない。そうではなく、自分のアイデンティティとして名乗る人もいるかもしれない。看護師もハンドメイド作家もYouTuberも大切なアイデンティティであり、その総体が私である、と。なんとなく、後者の人のほうがうまくいっている、というか、なんか楽しそうだなと思うことが体感として多い。そのような人は、言うなれば「キャリアの因数分解」をしているように見える。
私はどのような人間で、どういうものが好きで、なにをやりたいのか。このようなことを考えるとき、キャリアの掛け算、もとい、キャリアの因数分解が役に立つ。私という渾然とした総体を、いくつかの要素に分解してみる。看護師としての私と、ハンドメイド作家としての私。全くの別物かといえばそうでもない。患者に接するときの繊細な手つきは、ハンドメイドの手触りに通ずるだろう。二つに共通する因数、つまり公約数を見出すことができる。YouTuberはどうか。リスナーとおしゃべりするのが好きだとすれば、ここにも看護師との公約数がありそうだ。このような手続きは、掛け算よりも、むしろ割り算に近い。付け足していくのではなく、分解するイメージ。素因数分解は、整数の性質を調べるときの常套手段である。その数がどのような素数から成り立っているのかを明らかにすることができる。
そして当然、人間は整数ではないので、素因数分解をすれば解決、とはならない。私は12ではないし、あなたは57ではない。人はもっと複雑でカオスだ。それはある種の数学の問題にも当てはまる。素数が無限に存在することは知られているけれど、差が2の素数のペア(双子素数)が無限に存在するかどうかは未解決だ。いかにも簡単そうなのに、全然解けない問題が、結構たくさんあるらしい。
私は数学者ではないので、聞きかじった話ではあるけれど、一般にイメージされる「天才数学者」みたいな人はほとんどいないらしい。天才的なアイデアで一気に問題が解けることはまずなく、泥臭く、地道に手を動かすのが数学者という職業だそうだ。「看護師×ハンドメイド作家×YouTuber」と名乗るだけでは、掛け算の式を書いたに過ぎない。この式を地道に、泥臭く、計算しなければならないのだ。