「人脈は大事」とずっと言われ続けてきた。学生時代は映画をやっていて、とはいえ、そのような専門の環境にいたわけではなかったので、とにかく人脈をつくるのに必死だった。映画を撮るためにいろんな人に声をかけたり、ミュージックビデオを撮りませんかとアイドル事務所に営業したり、他大学の映画サークルに押しかけたり。映画の道を志す学生を集めたテレビ番組に出演したことがあって、その帰り道、通りがかった居酒屋の窓越しに、さっきの番組に出ていた早稲田かどこかの映画サークルの人たちの姿をたまたま見かけて、思い切って混ぜてもらったことがある。それなりに話をして、連絡先も交換した。けれど、結局、それからほとんど連絡はしなかったように思う。映画を通じて知り合った人はたくさんいるけれど、今も交流が続いている人はほとんどいない。
どうすればよかったのか、今でもよくわからない。当時はそれなりに、必死にもがいていたと思う。実力が足りないとか、コミュニケーションが下手だったとか、思い当たる原因はたくさんある。でも、なんといえばよいのだろうか。なにかこう、見えない壁のようなものをずっと感じていた。
それは今も変わらない。あらゆるコミュニティ、あるいはサークルの「外側」にいるような感覚が、映画をやっていた頃からずっと、ある。一応、高校時代には映画サークルを立ち上げたし、大学では写真部に入った。それなりに楽しかったし、友達もできた。でも、それは「人脈」でも「コネ」でもない。そういうものを求めて映画部や写真部に入ったわけではない。
きっと、幻想なのだろう。人脈も、コネも。ようやく、少しずつ、わかってきた。仲が良いとか悪いとか、趣味が合うとか合わないとか、同じ仕事をしているとかそうじゃないとか、しょせんその程度のことが、外側から見たときに、どこか特権的な力を持つ特別な繋がりのように見えてしまう。その実態は外側からは決して見えない。
見えないものに憧れや幻想を抱いてしまうのは、人間の哀しき性だろう。そういう弱さにつけこんだビジネスがたくさんある。「初心者でもフリーランスエンジニアになれる!」と謳って高いプログラミング講座に誘導する業者などはその典型例だ。人脈やコネというものに対して高いハードルがあるように見せかけるのも、原理としては同じだろう。ありもしない幻想に値札がつけられているのだ。
人脈もコネも、全然ない。その代わり、友達だと思える人は、少しずつ増えてきた。本当に、少しずつ。だから全然、多くはない。増やしたいとも思わない。でも、それでいい。なんの目的も打算もなしにできた友達は、高いコストを支払って得た人脈よりもはるかに貴重で、かけがえのないものだ。「内側」にも「外側」にもいない。だから友達なのだ。