職業病なのか癖なのか、私はなにかと「演出」をしなければ気がすまない性分らしい。事実をただ淡々と並べるのではなく、そこにストーリーを見出し、ドラマチックな解釈を含ませる。たとえば、歩いていたら突然、雨が降ってきたとする。ここで、カメラがリュックにクローズアップしたとしよう。すると、リュックの中にいかにも重要なアイテムが入っているかのような印象を観客に与えることができる。大切に届けなければならないものを、雨で濡らした悲劇の主人公。ドラマの導入としては悪くない。
雨に降られるなんて、全然珍しくないけれど、演出を少し入れてあげるだけで、たちまち物語の「伏線」になる。雨だけじゃない。濡れた時計。転んで擦りむいた膝。偶然ぶつかった誰か。
仮に、その人と付き合って、結婚して、子供が生まれたとしよう。その場合、ぶつかるシーンは、それなりに丁寧に演出してあげる必要がある。この人は重要な人物です、と観客に伝えなければならない。あるいは、もっとミステリィ的に仕立てるのなら、それが伏線であるかどうかが絶妙なラインを探る必要があるだろう。気づかれなければ伏線にならないし、露骨すぎても、やはり伏線にならない。
人生は、そんなことばかり起きる。伏線なのか、そうじゃないのか。私は私の人生を演出することはできるけれど、脚本を書くことはできない。私は私の人生の台本を読めない。脚本を書いたのは神様であって、私は偉大なる脚本家の言いなりになるしかない。
だから、演出するのだ。伏線を張るのは脚本家の仕事だけれど、回収するのは演出家の仕事だ。なんとなく、優れた脚本家は、伏線を回収する余地を残してくれると思っている。映画でも、ドラマでも、舞台でも、ゲームでも、脚本だけで物語は完成しない。
つまり、私は人生をかけて、脚本家が仕組んだ謎を解き明かさねばならない。それも、ただクイズのように解くのではなく、ドラマチックに、エレガントに、大胆に解く。めんどくさい脚本であればあるほど、演出のしがいもあるというものだ。正直、この脚本家は、伏線を張りすぎている。こんなの、回収できるわけがない。監督が私じゃなかったら、企画ごと没になっていたことだろう。