好きな人が運命の人とは限らない

池田大輝
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公開:2025/4/6

その人のことしか考えられないくらいに誰かを好きになったことが、誰しも一度はあると思う。そのような恋は、大抵の場合、叶わない。失恋し、ひどく落ち込み、自分はこの世界に必要とされていないと思い知り、自ら命を絶つ選択肢がふと頭によぎるけれど、そこまでの勇気はなく、そんなふうにだらだら生きていると、あれほどまでに好きだったはずの人のことがだんだんどうでも良くなってきて、気がつけば、また別の誰かに恋している。

そのような経験を何度か味わうと、なんとなく、わかるようになる。好きになりかけた時点で、これは無理だなとか、逆に、この人は自分のことが好きなのかな(でも相手には興味がない)とか。誰かを好きになったり、誰かに好かれたりすることが、どこか虚しさを帯びるようになる。まして、ちょっとした好意がハラスメントになりかねない時代である。マッチングアプリや結婚相談所のような保護区の外で恋愛をすることのリスクが、メリットに対して大きすぎる。だから、好きになったり好かれたりすることが、だんだん茶番のように思えてくる。本当の恋など、運命の出会いなど存在しないのだ、と。

あくまで個人的な予感だけれど、運命というものは、好きとか嫌いとか、そういう気持ちとは別の次元に存在していると思う。運命はコントロールできない。恋愛感情もコントロールできないと言えばそうかもしれないが、コントロールできなくても抑え込むことはできる。運命は、そうじゃない。出会ってしまったが最後、人生をすっかり変えてしまうような、運命としか言い表せないようなものが、たしかに、どこかに、存在する。

新海誠監督は、私にとって運命の人だ。『秒速5センチメートル』に心奪われ、それをきっかけに自分でもアニメをつくった。新海さんがいなければ、創作を辞めていたかもしれない。それくらい、大きな出会いだった。新海さんの映画はもちろん好きだ。けれど、私が新海さんの作品を好きなことと、新海さんが運命の人であることにはあまり関係がない。運命がコントロール不能というのは、そういうことだ。好きな映画はたくさんあるけれど、その監督全員が運命の人ではない。運命には滅多に出会えるものではない。

マッチングアプリをやれば、出会いの確率が高まるからやるべきだ、と言われたことがある。たしかに、相性や趣味が合う人とマッチする確率は高いから、良さげに聞こえる。しかし、それも、やはり、運命とはほとんど関係がない。運命はどこに転がっているかわからない。アニメをつくるつもりなんか全くなかったのに、新海誠に出会ってしまったがゆえに、アニメをつくり、ファルコムに入り、ギャルゲーをつくる羽目になってしまったのだ。それくらい運命とは残酷で、透明で、どうしようもないものなのだ。

誰かを好きになる気持ちは、どうすることもできない。けれど、運命は、それ以上にどうすることもできない。いや、比べることさえ無意味だ。運命の前では全てが無力だ。それを受け入れることは、時に諦めであり、時に抱擁である。運命は、出会ってしまえばすぐにわかる。あ、これが運命なのか、と。そのような出会いがこの先、何度訪れるだろうか。きっと多くはないだろう。好きになった人が、たまたま運命の相手である確率はきわめて低い。けれど、ゼロじゃない。できることはほとんどない。だから、運命の女神にしずかに祈ろう。書くことがささやかな祈りになるのなら。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink