ここのところ、SNSで男女のしょうもない諍いを見かける頻度が減った。意図的に見ないようにしているから、タイムラインに現れにくくなっているのだろう。一方で、ある種の「淀み」のようなものも感じる。うまく言葉にできないのだけれど、ざっくり言うと、男女の役割が再び固定されつつあるように思う。現代的なジェンダー観は、男らしさ、女らしさというステレオタイプを排除してきた。はずなのに、ここ数年は、むしろ旧来的な性分担に回帰しているように見える。
具体的な話をここでするつもりはない。具体的に知りたい人は、それっぽいキーワードで検索してみると良い。きっと、うんざりすると思う。エッセィを書く間くらいは、うんざりしたくないのだ。
男らしさや女らしさに回帰しているのは、おそらく、そのほうが楽だからだと思う。生物学的にいえば、男には男らしさが、女には女らしさがある。肉体的には明らかだし、精神的にも有意差はあるだろう。生物学的な性質を否定することは簡単ではない。食欲をなくすことはできないし、眠らずに済む方法もない。同じように、性別というものをある程度は受け入れなければならない。現代的なジェンダー観は、そんなことはわかりきった上で、では、私たちは生物学的な性をどのように乗り越えるかという話をしてきたはずだ。お腹が空いたからといって食い逃げは犯罪だし、夜勤をする人には夜勤手当というものがある。生物というハードウェア上の制約を、制度というソフトウェアで乗り越えてきたはずだ。
それなのに、性に限っては、乗り越えることを諦めるムードがもはや漂いつつある。もちろん、女性差別は減っているし、性的マイノリティへの理解も少しずつ進んでいる。けれど、食欲や睡眠欲と違うのは、それを全人類が共有できないことだ。空腹や睡眠不足のつらさは誰でもわかるが、女性のつらさは男性には理解できず、男性のつらさは女性には理解できない(ことになっている)。その背景には、同性どうしなら理解し合えるという幻想もあるのだろう。
性愛というものはあまりにカオスで、理不尽だ。真面目に向き合おうとすればするほど嫌になる。きっと、生物としてそのようにプログラムされているのだろう。余計なことを考えずに、さっさと繁殖してしまうほうが楽。ジェンダーだとかマイノリティだとか、そういうことは繁殖の妨げになる。だから、生物学的な性に縛られて生きるほうが楽なのだ。お金を払わずに好きなだけ食べたい。仕事をせずに好きなだけ寝ていたい。ジェンダーだとか難しいことを考えず、獣のように生きていたい。
私はそんな生き方は嫌だ。獣のように生きたくはない。せめて人間らしくありたい。幸運にも、私たちは考えることができる。他人の気持ちを想像することができる。それは間違っているかもしれないし、独りよがりかもしれない。それでも、誰かを想うことで、一人では辿り着けない場所に辿り着くことができる。簡単ではない。痛みも伴う。その人を傷つけるかもしれない。その痛みを引き受けることが、私たちにはできるはずだ。誰かの痛みの半分を、感じることができるはずなのだ。性愛というものには心底うんざりする。うんざりしながら、誰かと生きていかなければならないのだ。