昔はこれがわからなかった。結婚したい気持ちが理解できないし、それを夢と言ってしまうこともよくわからない。夢とはもっと壮大で、叶わないから夢なのではないか。結婚なんて、妥協すれば簡単にできる。そう思っていた。
最近になって、その気持ちが少しだけわかるようになってきた。お嫁さんになるとは、誰でもいいから結婚することではない。たったひとりに愛されることだ。たったひとつの、永遠の愛。世界に存在するほかのどの愛とも違う。たったひとつの、交換不能な愛。交換できないものを大切にする姿勢こそ、愛と呼ぶに相応しいのかもしれない。
そのようなロマンティシズムを、端的に言い表した言葉が「お嫁さんになりたい」なのだろう。「愛されたい」は少し抽象的すぎる。ややエゴイスティックな含みもある。「お嫁さんになりたい」は、もっと純粋で、無邪気な感じがする。
そう、無邪気。子供っぽいのだ。大人になって「お嫁さんになりたい」と言う人に出会ったことがない。結婚したい。愛されたい。養われたい。大人が声にするその言葉には、どこか打算が含まれている。愛という抽象的な概念が、承認欲求だとか、精神の安定だとか、そういう具体的で卑近なメリットに矮小化されている。
「お嫁さんになりたい」という言葉に、そのような打算は一切ない。子供はそんなことを考えない。漠然とした「お嫁さん」という理想像に、茫漠とした憧れを抱いている。いや、憧れですらないかもしれない。いつかそのような未来が来ることを、なんの疑いもなく信じている。
愛とは、本当はそれくらい純粋なものなのだと思う。どれだけ理想のパートナーに出会えたとしても、愛に伴う苦難や試練からはきっと逃れられない。なにがあろうとも、ただ純粋に愛されたい。
だから、たぶん「お嫁さんになりたい」ではなく、「お嫁さんでありたい」と言ったほうが正しい。「お嫁さんになりたい」と言うから、夢みたいに聞こえるのだ。夢は叶えることに意味があるけれど、お嫁さんになること自体に意味はない。結婚はゴールではなくスタートである、という意味がなんとなくわかる気がする。
愛とはもっと寛大なものであり、夢とはもっと壮大なものである。お嫁さんになることは、ほんの入口に過ぎない。夢を愛し続けよう。愛に夢見続けよう。