「理想が高い」とよく言われる。その通り。私は理想が高い、理想主義者である。理想主義と書くと、なにか信念に従って生きているように思われるかもしれないけれど、そうではない。自分なりに普通に生きているつもりが、傍から見ればきわめて理想主義的であるように見えるらしいことが最近、わかってきた。
高校生くらいの頃からずっと漠然と目指すものがあった。大学生くらいまではそれは映画監督になることだと思っていた。あながち間違ってはいないし、今も映画を撮りたい気持ちはある。けれど、それが最終ゴールではない。昔からそれは感じていた。将来なにになりたいかと大人は問う。みんな職業を答えるから、自分もそのように答えなければならないと思って、一番近いであろう映画監督を今までは夢に挙げていた。
でも、本当は、もっと漠然としたものを目指していた。それはたぶん、昔からはっきりとわかっていた。たまに学生の頃に撮った映画を見返すと、当時は自覚していなかった「理想のビジョン」が作品に滲み出ていることに気付かされる。やりたいこと、目指すべき道は自分が一番よくわかっていた。けれど、それを表す言葉がなかった。その理想を誰かに伝えることも、自分に言い聞かせることもできなかった。だから、つくるしかなかった。作品として形にすることでしか、理想に近づくことはできない。作品として伝えることでしか、理想を共有することはできない。それだけは、はっきりとわかっていた。
「これが最後の作品だ」と思って創作をすることはない。有限の作品群で、自分の理想を完全に体現することは不可能だ。つくり続けることでしか、思い描く理想に近づくことはできない。どれだけ近づいたとしても、理想に比べれば現実は未完成で、ちゃちで、頼りない。それでも、というか、だからこそ、理想に向かって歩んでいくほかない。
理想と憧れは違う。あの人のようになりたい。あの人に認められたい。そのような感情は、他人と比較するから生まれる。他人との比較の中でなにかを成し遂げたところで、それは相対的な指標でしかないから、また別の比較対象が現れれば、叶えたはずの理想はたちまち崩れてしまう。
理想とは、その人の中にしんしんと湧き出る泉のようなものだ。抑え込むことも、他人と比較することもできない。というか、意味がない。憧れや羨みでいくら自分を満たしても、決して満たされることはない。理想とは、透明で、澄んでいて、指の間をさらさらと流れていくものだ。そのかたちをはっきりと捉えることは難しい。だから、少しずつ近づくしかないのだ。その意味では、理想とは神のようなものかもしれない。信仰が祈りによってあらわされるように、理想も行動によってその存在を確かめられる。行動しなければ、理想に近づくことはできない。理想主義者は、結構現実的なのだ。