素人は消え、プロも消えた

池田大輝
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インターネットが普及する前のテレビはほとんど唯一の大衆向けのメディアであって、そこには今よりも遥かに強大な権威があった。芸能界の内と外が明確に分かれていて、内側がプロ、外側が素人だった。素人がテレビに出ることは基本的には許されない。面白い素人がいたら、プロが素人を「テレビに出してあげる」。昔のテレビを見ていると、「素人」という言葉が頻繁に登場する。そこにはたしかに「壁」があった。

最近はほとんどテレビを見ないけれど、YouTuberがテレビに出ることはすっかり当たり前になったようだ。YouTuberがテレビに出るとき、素人とかプロとか、わざわざ言っていないと思う(見ていないので推測)。YouTuberは、素人ともプロとも言い難いけれど、きっとテレビ業界の人から見れば素人だろう。それでも、素人をあえて区別するような風潮は、昔に比べれば、かなり薄まってきたように思われる。

やはり、SNSの影響は大きい。オールドメディアの特権性は消え、誰もが等しく発信できるようになった。テレビCMに大した効果がないことに、多くのスポンサーが気付き始めている。ネットがあらゆるものを破壊した。素人とプロの壁も、その中に含まれる。

プロであることは、業界の中にいる、つまり特権的な立場にあることの宣言として機能していた。ゲーム会社に勤めていればプロのゲームクリエイター、編集者とコネクションがあればプロの作家、事務所に所属していればプロの芸人といった具合に。あながち間違いではない。しかし、そのような区別が、意味をなさなくなってきているようにも見える。

素人が、プロと同じ土俵で戦えるようになった。私のような個人ゲーム作家でも、Steamでゲームをリリースできる。そこにプロと素人の区別はない。システム上、区別されない。YouTubeでゲーム実況を見るとき、配信者がプロかどうかを気にする視聴者はいない。せいぜい、自分が知っている人か、知っているゲームかどうかを気にする程度だろう。

素人がプロと対等に戦えるということは、プロは素人と対等に戦わなければならないということにほかならない。これは、素人にとってチャンスである以上に、プロにとっては脅威である。テレビに出ることの特権性が失われ、客観的な評価のもとに曝されるようになった。いくら「プロです」と名乗ったところで、実力が伴わなければたちまち素人に負かされてしまう。矜持を守るために「プロです」とアピールするほど、肩書きは信頼を失っていく。実力で勝負しようとしても、相手はプロだけではない。今までプロでなかっただけの潜在的なプロがたくさんいる。全人類を相手にした競争の中で勝ち残っていくことは、むしろプロだからこそ難しいといえる。素人は、必ずしも競争する必要がないからだ。

そんな具合に、素人とプロの区別にもはや積極的な意味はないのだろう。むしろ、その区別に固執することは視野を狭めかねない。「未経験でもプロになれる!」と謳って高額なスクールに誘導するビジネスはどの業界にもあって、その数はトータルで見れば増えているはずだ。その理由は、これまでの議論から論理的に導くことができる。つまり、素人とプロを区別することに躍起になっている人たちがいるということ。もっとも、そのような区別は幻想でしかないことが徐々に暴かれている。優れた「プロ」を発掘するために新人賞を設けている出版業界はもはや風前の灯火である。受賞作だけが売れれば良いと本気で思っているのか。いつまで同じことを続けるつもりなのか、不思議でならない。

ところで、私は新海誠監督のファンであるけれど、新海さんは自主制作からいきなりプロになった。アニメ業界を経ずに、いきなりアニメ映画の監督になったのである。では、新海さんはアニメ業界のプロかと問われれば、それはちょっと違うと思う。新海誠を見出した川口典孝プロデューサーは、「既存のアニメ業界にフィットする器ではないから、新海誠のためのスタジオをつくった」とインタビューで語っている。つまり、新海誠はアニメのプロではなく、「新海誠のプロ」なのだ。プロなのに素人臭いところが新海誠の真骨頂である。そのような作家になりたいものだ。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink