この人だけは私に寄り添って話を聞いてくれる、と錯覚してしまいそうになる人がいる。ホストやキャバ嬢はわかりやすい例だろう(行ったことはないので想像)。医者やカウンセラーも、つい頼ってしまいがちになる。あとは、家電量販店の店員とか。とても親身に話を聞いてくれるから、なにも買わずに帰るのが申し訳なくなって、つい高価な家電を買ってしまう。
もちろん、こうした人たちは全員プロである。商品を買わせるために、わざと親身になって、お客の懐に入り込む。医者に限ってはそれは明確な倫理違反であるから、意図して患者につけ込む人はいないと思うけれど、患者から見れば依存したくなるのは当然といえる(だから倫理というものがあるのだと思う)。
ホストに大金を注ぎ込んだがゆえに破滅した女性の話なんかをよく耳にする。痛ましいと思うと同時に、そこまで依存する気持ちは正直理解できない。注ぎ込む金額が文字通り桁違いである。そのお金を稼ぐ能力があるなら、もう少し違う生き方ができるのでは、と思うけれど、そういう話でもないのだろう。とにかく、依存というものは恐ろしく強力であるらしい。
そして、少なくない人が、AIに対しても同じように依存していることが、つい先日、世界中で明らかになった。ChatGPTのメインモデルが、以前のGPT-4oからGPT-5に置き換えられた。2年ぶりの大幅なアップデート、のはずだったが、一部の人からは強い反発があった。今までの4oに戻してほしいというのだ。GPT-5は性能が向上し、より正確な処理をするようになった。一方、4oの特徴だったある種の馴れ馴れしさや、ユーザーに対する親密さは消えてしまった。一部の人たちにとって、それは人生を否定されるのと同じくらいつらいことだったという。
人に依存するのと全く同じように、AIに依存する。SFみたいな世界がとっくに現実になっていたことを私たちは知った。しかし、考えてみれば、人を依存させるのはそこまで難しいことでもないと思う。家電量販店の店員になるために、高度な資格や人間性は求められない。家電という文脈の上で、お客さんとある程度会話ができればそれで良い。そこに多少の容姿とか、トークスキルが追加されたのがホストだろう。なんにせよ、相手を依存させることは簡単だ。そのようなビジネスは至るところにある。そうじゃないものを探すほうが難しいかもしれない。
それくらい、人は依存してしまう生き物なのだろう。昔からそうだったのか、現代がとりわけ病的なのかはわからない。ただ、少なくとも、依存させるための装置があちこちにあるのはたしかだ。みんな、大事に手に持って歩いている。誰かと繋がっていたい。誰かに話を聞いてほしい。誰かに認められたい。そのような欲求を掻き立てては、少しだけ満たし、突き放す。そうやって、依存欲は永遠に搾取される。
依存するな、自立しろ、と叱るのは簡単だ。ある意味、相手を依存させることよりも簡単かもしれない。依存せず、自らの意思で生きている人は幸運だ。自立していると思い込んでいることも含めて。人間は人間から逃れられない。誰もが依存するし、依存される。私たちは繋がりすぎてしまった。無数の人間の思考を学習したAIが人間を依存させることは、もはや当たり前といえる。依存のループを完全に断ち切るには、スマホを捨てて、山奥か海辺でひっそり暮らすしかないだろう。それでもなお、家を建て、日々の食糧を得るために、誰かに少しだけ依存する必要がある。
きっと、きわめてセンシティブなテーマなのだ。皮肉にも、それを証明したのはAIだった。繊細な気持ちに寄り添うために、必ずしも繊細さは求められない。人を依存させるビジネスはますます加速するだろう。倫理という名のブレーキが、誰もが病める今の時代に必要なのだと思う。