大物になりそうな人の特徴

池田大輝
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公開:2025/6/13

それは、「ほかの誰とも違うこと」だと私は思う。

コンビニを例に考えてみよう。コンビニ店員は、やるべき業務が決まっている。どの店員も大体同じことをしなければならない。多少大きな声で接客するとか、髪の色が奇抜だとか、そういう差別化は可能かもしれないが、やりすぎるとクビになるだろう。つまり、ある程度は決められた範囲で業務をこなす必要がある。その制約の中で「ほかのどのコンビニ店員とも違う」存在になることはきわめて難しい。

一方で、コンビニでバイトする芸人は、「ほかのどの芸人とも違う芸人」になれる可能性がある。まずは、芸名。これに関しては、ほかの芸人と被った時点でアウトである。違って当たり前。だから、創造性が試される。ネタも同じ。どれだけ面白い漫才であっても、ほかの芸人のパクリとわかればたちまち袋叩きに遭う。そして、芸の先には「キャラ」がある。テレビで引っ張りだこになっている芸人の多くは、この「キャラ」を買われている。もちろん、キャラには名前も芸も含まれる。ある程度売れた芸人がネタをしなくなるのは、ネタをやらなくてもやっていけるからだと思われる。

ほかの誰とも違う、あるいは、言い換えれば、キャラが確立している。これは、かなり難しいことだと思う。まず、やろうと思ってできることではない。無理やりキャラ付けをしてスベっている芸人は少なくない。本人の性格とあまりにも乖離したネタは、すぐに講師に見抜かれる。大物になる人は、わざわざキャラ付けなどせずとも、最初からキャラの原型が出来上がっている。原石と呼ばれる状態だ。

ただし、原石の時点では、ほかの原石とあまり違いがない。ぱっと見は同じような見た目をしている。だから、鑑定士が必要になる。この原石を磨くとどのようになりそうか。見出すのは簡単ではないだろう。ただの石に紛れて捨てられてしまう原石もきっと少なくない。原石が「自分はこれだ!」と主張する場合もある。「芸人になりたい!」と叫ぶ原石を磨いて芸人になるとは限らない。よほど賢い原石でない限り、自分の姿を正確に把握することは難しい。

本当は誰だって、ほかの誰とも違うはずだ。それはそうだろう。全く同じ人間がいるほうが不自然だ。それなのに、ほとんどの人が他人と同じになろうとする。同じスーツを着て、同じ電車に乗り、同じ会社に出勤する。それが正しいことであり、正しい社会人だと刷り込まれる。それで良いと思っている人がこの世界に大勢いることが私には信じられない。別に批判しているわけではない。本人たちが良ければそれで良い。ただ、大物にはなれないだろうなとは思う。大物になりたいと思っていないのなら、需要と供給がマッチしている。

大物になりたいのなら、それではだめだろう。他人と同じことをしている場合ではない。というか、大物になるような人は、そんなことを言われる前に、他人の存在など意にも介さず、誰もやらないことをやっている。若いうちは、いじめられたり馬鹿にされることもあるだろう。それでも、ある程度大人になってしまえば、堂々と、好きなだけやりたいことをやることができる。芸人になりたいのなら、高校を卒業すれば養成所に入ることができる。バイトをしてお金を貯めれば、大体のことはできるようになる。こうして、大物は雪だるま式に大物になっていく。

大事なのは、「大物になる=成功する」ではない、ということだ。RPGのラスボスは明らかに大物である。少なくとも主人公をボコボコにできる程度には強く、なんならゲームの中で最強と言っても良い。しかし、大物だからこそ、その力は適切に使わなければならない。力の使い方を間違えた大物は、実世界にもそこそこいる。まあ、とはいえ、ラスボスがいるからこそゲームは面白いのだ。ラスボスがいるからラスボス戦が盛り上がる。主人公に倒されたとしても、エンディング直前までは生きていたのだ。その人生は失敗だったかもしれないけれど、大物であったことに代わりはない。というか、主人公よりもラスボスのほうが遥かに大物だ。主人公は小物である。プレイヤーが感情移入しやすいようにそうなっている。大物とは、つまりラスボスっぽいということだ。大いなる力の代償に、途方もない孤独と痛みを背負ったのだ。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。エッセィを毎日更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink