前に出たがるプロデューサー

池田大輝
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公開:2026/6/14

中学生の頃に『ガリレオ』シリーズを読んでも東野圭吾のファンにはならなかったけれど、数年前に『すべてがFになる』を読んで以来、すっかり森博嗣のファンになった。小説よりも森さんのエッセィをたくさん読んだ。作品ではなく、作者のファンになったというわけである。

正直なところ、中学生の頃は東野圭吾という名前すら把握していなかったように思う。本に書いてあったプロフィールを見て、理系の方であるということはかろうじて知っていた。

東野圭吾には感じず、森博嗣に感じたものの正体は、ひとことで言えば作家性である。作品から滲み出る作者のエゴとでもいうべきもの。作家性が強いことが必ずしも良いわけではない。ジブリが広く親しまれているのは、宮崎駿や高畑勲や鈴木敏夫という名前を知らなくても楽しめるからだ。新海誠監督の映画は、必ず新海誠という名前とセットだ。新海誠という文脈を切り離しては、楽しみが半減してしまう。森博嗣もその系譜だろう(実際には逆だと思うけれど)。森ミステリィを読んでいると、これを書いているのはどんな人間なんだ、と思わずにはいられない。

小説家は、プロデューサーのような職業だと思っている。読者が読みたいのは小説の中で展開される劇であって、作者の独白ではない。舞台を用意して、キャラクターを配置し、物語を完成させることがプロデューサーの仕事である。そのやり方はプロデューサーに依って十人十色であって、これといった正解はない。前に出たがるプロデューサーが叩かれがちなのは、未熟だからだ。セルフプロデュースに失敗している。作品やキャラクターを、自分をかっこよく見せるための飾りくらいにしか思っていない。その意味で、森博嗣や新海誠はたいへん優秀なプロデューサーであるといえる。作者のエゴが強すぎる、と読者に錯覚させることもまた作品の一部であることに、読者の多くは気づいていない。

@radish2951
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