思いがけない出会いがあったとき、それは必然か、それとも偶然か。なんとなく、偶然の出会いのほうがうれしいと思う。なんの必然性もなく、たまたま、出会ってしまった。それなのに、あとになって考えれば考えるほど、あれは必然だったんじゃないかと思える。夜、まっさらな雪の積もるしずかな道を歩いたことがあるだろうか。音も、光も、命のひとかけらもない、つめたい夜。ほとんど死んだような心地で、死の淵を彷徨うように歩く。でも、振り返ると、その足跡は、どこかをまっすぐに目指して、意気揚々と歩いたように見える。
運命に祝福されることも、また、運命を呪うこともあるだろう。冴えない人生を歩む運命に、あなたは導かれているかもしれない。それは、ある意味では、逃れられない運命だ。そう、いかなる運命からも、私たちは逃れることができない。しかし、運命論は、上書きすることができる。論理は、実はひとつじゃない。直観では、私たちは生きているか、生きていないかのどちらかだ。でも、そのどちらでもない状態を許容する論理が存在する。矛盾すらも受け入れる論理体系さえある。
だから、運命論も、書き換えてしまえばいい。誰かが書いた運命論なんか、くしゃくしゃに丸めて捨ててしまおう。運命を書き換えることができないのなら、運命論を創作しよう。脇役として生きる運命に絶望する人がいるのなら、私は、その人にスポットライトを当て続ける変な演出家になろう。そんな舞台が、世界にひとつくらいあってもいいでしょう。すべての運命は偶然であり、必然であり、やがてひとつの物語になる。