舞台の芝居、映画の芝居、ゲームの芝居

池田大輝
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公開:2025/9/26

舞台の芝居は、とにかく「大きく」見せることが求められる。でないと、遠くにいる観客にキャラクターの言動が伝わらない。身体の動きだけでなく、声量やセリフ回しも大きい。舞台に馴染みのない人が、舞台の上で、役者の芝居を真横から見ると、そのパワフルさに圧倒されるだろう。劇場のスケールに合わせて、芝居も大きくなる。

映画の芝居は、舞台のそれとは全く違う。舞台出身の俳優が映画に出ると、芝居が大きい、あるいは、わざとらしいと指摘されることがあると聞く。映画は、もっと「小さい」メディアだ。カメラは通常、俳優のすぐ近くにあり、つまり、実際にそのキャラクターと会話をする人の距離から芝居を見ていることになる。カメラが近づけば近づくほど、より細やかな演技が求められる。目線の動きが1ミリ違うだけで、伝わる感情が変わったりする。

では、ゲームの芝居はどうだろう。舞台と映画の芝居については、演劇論でごく一般的に言及されるものであって、私の独自のアイデアではない。一方で、ゲームの演劇論というものは、私の知る限り存在しない。たまに、自分の考えをさも業界のルールであるかのように語る音響監督らしき人がいるけれど、あんなものを真に受けてはいけない。

たとえば、アクションゲームとノベルゲームでは、ボイスの役割は全く異なる。アクションゲームのボイスは、いわば「効果音」だ。アクションゲームを遊ぶプレイヤーは、ボイスを聴きたいのではなく、敵を倒したいのだ。戦いを盛り上げる演出として、キャラクターの声が効果的に使われている。ノベルゲームは、作品に依っては、ほとんど映画みたいだったりする。プレイヤーは良質な物語を求めており、その意味で、声の芝居は、文字通り「主役」になり得る。声だけでなく、全身の芝居を丸ごとキャプチャしているゲームもある。こうなると、ほぼ映画と見分けがつかない。

カービィやスマブラの生みの親である桜井政博さんは、YouTubeチャンネル『桜井政博のゲーム作るには』で、ゲーム制作にまつわるお話をたくさんされていた。たいへん役に立つものが多いし、時には厳しいお言葉もあった。しかし、注意深く聞いてみると、桜井さんは「絶対にこうすべき」ということをほとんど仰っていない。あったとすれば、プレイヤーを不必要に待たせるな、ということくらいか。それ以外は、「こんな考え方もあるよ」と、選択肢を提示するに留まっている。

同じことが、芝居にもいえると私は思う。こうすれば良い芝居ができる、という銀の弾丸は存在しない。それどころか、舞台や映画で基礎とされる教科書のようなものさえない。ゲーム自体が多様で発展途上のメディアなのだから、芝居に限ればなおさらだ。このようなゲームの多様性、柔軟性に魅力を感じて、私はゲームをつくっている。

そして、かつて映画を道を志していた者として、映画や舞台といった古典的なメディアにも、ゲーム的な「自由」を持ち込みたい、という野望がある。歴史が続くほど、伝統は固定される。それは、必ずしも悪いことではないけれど、でも、創作は本来、もっと自由だ。ゲームはそれを思い出させてくれる。映画のようなゲームがあるように、舞台のような映画があってもいいし、ゲームみたいな舞台があってもいい。もっとも、そうなれば、もはやメディアの区別さえ無意味になる。舞台という概念の拡張。演じることの悦びの源流。私たちは舞台の上でならどこまでも行ける。さあ、次はどこへ行く?

@radish2951
恋愛ゲーム作家。毎日21時頃にエッセィを更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink