恩を仇で返すようなことを昔から何度もしてきた。もちろん、そうしたくてしているわけではない。感謝し、ありがたく受け取りたい。でも、苦手なのだ。
小さい頃はもっと素直だった気がする。素直で、良い子で、誰にも迷惑をかけたりしない。優等生だった。優等生は期待される。高校生くらいまでは、期待に応えることができていた。できるだけ偏差値の高い大学に入らなければならないという意味不明な要求に、運と実力で応えてみせた。
そして、高い偏差値と引き換えに、素直さというものを失った。自分の心を蔑ろにすることで、大人の言葉に従う癖がついた。それが、じわじわと私を蝕んでいった。他人の期待には必ず応えなければならないという、考えてみれば、そんなことは絶対に無理だとわかるような強迫的な気持ちに取り憑かれてしまったのだ。
そこに、善意の居場所はない。期待や要求には必ず結果が求められているという世界観において、見返りを求めない純粋な善意は想定されていない。だから、善意を受け取ったときにどうすれば良いかわからなくなる。受け取ったら、なにかを返さなきゃいけない気がして、でも、そんなものは求められていなくて、求められていないのに無理に返そうとして、案の定、無理になって、その穴埋めをするかのように、相手の善意をなかったことにしてしまう。
考えてみれば、明らかにおかしいとわかる。けれど、そのような思考パターンが、身体に沁みついてしまった。最近になって、ようやくそれを自覚できるようになった。少しずつではあるけれど、善意を善意のまま受け取れるように、意識を変えようと心がけている。まずは、善意を受け取ったら「ありがとう」と言うこと。10年くらい意識的に続けてみたら、少しずつできるようになってきた。自然にできるようになるには、もう10年はかかるだろう。
偏差値の高い大学に無理矢理行かせようとしたことも、もしかしたら大人の善意だったのかもしれない。少なくとも、悪意をもってそんなことはしないだろう。ただ、もしそれが善意であるなら、なぜそれが善意であるかをちゃんと説明してほしかった。高校生だからと馬鹿にせず、論理的に、根拠を用いて、納得できるまで向き合ってほしかった。
善意は、ぱっと見は善意に見えないこともある。善意なら善意だと言ってほしい。大切なら大切だと言ってほしい。好きなら好きだと言ってほしい。それが、私の素直な気持ちです。