他人と比べても意味がない

池田大輝
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公開:2025/6/28

他人と比べるな、というアドバイスを聞くことが多いと思う。このエッセィも同じことを主張するだけだから、ここで閉じても全く構わない。他人と比べることに意味がないとわかっているのに、なぜ、比べてしまうのか。それは、比べられることが、世の中のデフォルトになっているからだ。

小学校のうちから、比較は始まる。テストの点数が良ければ褒められ、悪ければ「あの子みたいに頑張ろう」と励まされる。次は、受験。これも早ければ小学生で経験すると思う。試験の点数によって、平等に、公平に比較される。就職活動も受験みたいなものだが、皆同じようなスーツを着て、あえて比較されやすいようにお膳立てをしているという意味で、その異常性は際立つ。会社に入ってからも比較は続く。給与の原資総額は決まっているから、評価は相対評価にならざるを得ない。全員が、全員と比較される。婚活というシステムも、複数の候補からベストマッチを選ぶ仕組みだ。とにかく、現代日本に生きる限り、比較からは逃れられない。

比較は必ずしも悪いことじゃない。特に、受験のようなシステムでは、公平であることがなによりも大事だ。全員が東大に入れるわけじゃない。だから、できるだけフェアな方法で、受験者たちは比較される。だからこそ、他人と自分を比べても意味がないのだ。言い換えれば、比較は「される」ものであって「する」ものではない、ということ。

二人以上の人間がいれば、任意の尺度を持ち出して彼らを比較することができる。身長はわかりやすい例だろう。容姿や人間性といった、幾分主観的な尺度であっても、大勢を集めて投票させれば、統計的に優劣を決めることができる。誰が最も優れた人間か、という、明らかに倫理的に問題がある比較であっても、機械的な方法に頼れば答えを出すことは難しくない。というか、機械的な方法に頼る以上、必ず答えは出る。

比較とは、それくらいつまらないものなのだ、ということを、改めて認識する必要があるだろう。私たちは比較されることに慣れすぎてしまった。なぜ、比較されるのか。それは、比較する側にとって、そのほうが楽だからだ。大勢のアイドルの卵を集めて、ファンの人気投票で順位をつける。そうすれば、わざわざ手間暇をかけて選別したり、売り込まなくても、ファンが勝手に卵たちを比較し、選別し、買ってくれる。運営はなにもする必要がない。

アイドルに限らず、社会という仕組みは、そのようにできている。誰も自分の選択に責任を持とうとしない。自分の選択の正しさに自信が持てないから、それを外部に委託する。比較という、機械的な手続きに矮小化してしまう。受験は、この点に関して、きわめて自覚的である。公平性のためには比較という道具に頼らざるを得ず、だからこそ、優れた道具を使わなければならないことをよく知っている。名門と呼ばれる大学の入試問題に良問が多いのは、これが理由だ。入試において、試されているのは受験生だけではない。なにを問うか、という点において、大学もまた試されているのだ。

他人と比べないことは、すなわち、自分の頭でよく考えることだ。それがどういうことか、と問いたくなるだろう。その態度がすでに、比べられることに慣れきってしまった証左だ。他人と比べることは、黙っていても社会が勝手にやってくれる。大きなお世話であるけれど、それに助けられている側面もゼロではないから、一応、ありがたく受け取っておく。この人生の主人公は私であり、あなただ。攻略法はどこにも書いていない。他人の意見は参考にならない。私が、あなたが考えて、選択肢を選ばなければならない。それが生きるということだろう。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。エッセィを毎日更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink