ここのところ、世界からすっかり隔絶されてしまったような感覚がある。このエッセィは唯一の例外みたいなもので、読んでくれる人がそれなりにいる。何をもって接続を定義するかはさておき、少なくとも一方向には繋がっている。
職場には毎日出勤しているから、人と言葉を交わす機会はそれなりにある。が、職場にいることも、そこで言葉を交わすことも、仕事という目的を達成するためのコミュニケーションの手段でしかなくて、つまりはごく局所的な、その場限りものであって、世界というものにほとんど寄与していない。AIと喋っているのとさほど変わらない。
では、世界と闇雲に繋がりたいかというと、そういうわけでもない。デフォルトで繋がりすぎる現代において、あえて世界から距離をとっているといえなくもない。SNSで、誰かにコメントすることはまずない。いいねはときどきしている。ただ、これも、局所的なコミュニケーションだ。Xのいいねは非公開である。リプライは公開されるが、個人間のやりとりが衆目に晒されるのは、どこか極端な感じがする。道端で知り合いに挨拶したら、それを不特定多数に目撃されているようなものだ。あまり気持ちの良いものではない。
世界というものは、もう消えてしまったのではないかと思う。あるいは、世界という言葉を、もはや誰も必要としなくなった。セカイ系はもう流行らないだろう。それが、デフォルトなのである。ごく局所的な関係の寄せ集めで、世界は充分機能する。地球が球体だろうと平面だろうと、個人の生活は変わらない。役に立たない、遠い世界の話よりも、もっと役に立つ、近い世界の能率が求められている。本が売れなくなっているのは、やはり必要とされていないから。他人と手軽に繋がる口実になるインディゲームは売れているようである。作品、つまり世界それ自体は求められていない。あくまで、媒体なのである。
世界は、いまや、アルゴリズムによって自動生成される味のしない巨大なパンケーキである。Xのおすすめ欄を眺めていると、気分が悪くなってくる。こんなものと繋がるくらいなら、隔絶されたほうがマシに思える。こうして世界は収縮し、局所化する。世界は奪われしまったのだ。基本的には、どうすることもできない。ただ生きることくらいしかできない。それが自由だと吹き込まれて、自由の試食でお腹が膨れる。そういうことにうんざりしたから、創作をしているのかもしれない。世界をゼロからつくることは、ほとんど自由そのものだ。そこには何も存在しない。何もないということは、なんでもありということである。