人材という言葉の異常性

池田大輝
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公開:2025/7/1

会社員をしていた頃、「人材」という言葉を頻繁に目にしていた。ちょうどその頃は、デジタル化だとかが盛んに謳われていて、「デジタル人材」なる言葉をあちこちで耳にした。また、「人材」か「人財」か、という議論もたびたび見かけた。「人財」だと、従業員をあたかも換金性のある資産のように扱っているように見え、いかがなものか、などなど。

会社を辞めて、もう4年近くになる。およそ「社会人」とは呼べないような人間である。そのような立場から思い返すと、「人材」という言葉には、強烈な違和感を抱かざるを得ない。

人材とは、文字通りに読めば、「材料として機能する人間」のことである。木材は、家を建てるための材料として機能する木であり、食材は、料理をつくるための材料として機能する生き物である。どんなものでも材料になれるわけではない。建築資材に適さない木というものがある。食材はわかりやすいだろう。食べてはいけないもの、調理がめんどくさいものはこの世にたくさん存在する。木材も食材も、材料として安定供給が可能なように、大規模な生産体制が敷かれている。スギやヒノキは、日本の木造建築でよく使われるから、計画的に植えられてきた。牛や豚や鶏は、いわゆる家畜と呼ばれるものだ。健康的な食事のために、貴重な命をいただいている。

人材も、基本的には同じである。材料として機能する、使いやすい人間として、計画的に大量生産されるもの、それが人材だ。スギやヒノキや牛や豚や鶏となんら変わらない。いや、明らかに違う点が一つ、ある。木材や食材は、自分が材料になることを知らない。生まれ、すくすくと育ち、ある日、殺される。まさか、自分がアパートやハンバーグの材料になるなんて思いもしない。

人材は違う。人材は、自分が材料であることをよく知っている。いや、知っているというレベルではない。優れた材料になるために、積極的に努力すべきだと主張する人材もいる。「時代に取り残されないデジタル人材になるために」などと題したセミナーはあちこちにある。今ならAI人材だろうか。そんなセミナーに、わざわざお金を払って参加する人材が少なくない。皆、喜んで「材料」になりたがっているのだ。

私から見れば、異常と言わざるを得ない。別に、材料になりたいのであれば好きにすればいいと思う。材料になる代わりに、お金という報酬をもらうことができる。スギが豊かな土壌を与えられるように、牛が美味しい餌を与えられるように。人間が食材やエネルギー源として消費されるディストピア小説があると聞く。それがディストピアならば、今のこの世界もどう見たってディストピアだ。そのような未来が来たとしても、「優れた食材になるためのセミナー」に躊躇いなく参加する人は結構いるのだろう。

人材である前に、人間なのだ。人間である前に、あなたなのだ。それを忘れてはいけない。人材も、人財も、どっちでもいい。資本主義的な建前に仕方なく付き合ってあげている、というスタンスが明確になるという意味では、「人財」のほうが、やや皮肉が効いていていいかもしれない。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。エッセィを毎日更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink