大学生の頃、新海誠監督の『秒速5センチメートル』に衝撃を受けて、アニメをつくり始めた。それから、ずっと新海さんに憧れて、新海さんみたいな映画監督になりたいと思ってきた。世界を生み出し、操り、彩りたいと思ってきた。新海ワールドと呼ばれるような独自の世界を、自分もつくりたいと思ってきた。
でも、色々やってみた結果、自分は新海誠になれないことを悟った。自分には、新海さんが持っている繊細な感性がない。新海さんみたいな文学的センスがない。新海さんのような天才クリエイターが持つ、唯一無二の才能がない。
その事実に落ち込むことはなかった。なぜなら、少しずつ知っていったから。挑戦しては、壁にぶち当たる。そういうことが何度もあった。一回の失敗で人生が終わるような失敗はしたことがない。小さな失敗と挫折を幾度と経て、自分は主役にはなれないことを知っていった。
主役ではないということが、長らくコンプレックスだった。とにかく目立たない、華のない人間である。普通に生活していても、存在感は薄いほう。存在感も、カリスマ性も、リーダーシップも持ち合わせていない。憧れの姿とのギャップに、長らく苦しんできた。
最近になって、その事実を受け入れられるようになってきた。自分は主役になれるような人間ではなかったのだ、と。それは、絶望とは違う。主役には主役の仕事があるように、主役でない私には、私なりの仕事があることを知った。いや、まだよくわからないけれど、そういうものがきっとあるはず。
主役でなければ、なんなのか。脇役? 裏方? たぶん、そのどちらでもない。主役を輝かせることは、きっと私の使命のひとつだけれど、それだけじゃつまらないでしょう。主役じゃないからこそ、できることがある。ということを知りつつある今日この頃。というか、新海誠だって、主役ではないのだ。新海ワールドの主役は、遠野貴樹や宮水三葉や岩戸鈴芽である。では、新海誠とはなんなのか? どうやら私は、まだまだ、全然、なにも知らないらしい。