私の好きなクリエイターは、そのような相方を見つけているケースが多い。クリストファー・ノーラン監督は、妻でありプロデューサーでもあるエマ・トーマスと長年映画製作を共にしている。小説家の森博嗣先生は、イラストレーターのささきすばる氏と結婚し、デビュー後は共著で本も書いている。クリエイターに限らず、研究者にもこのパターンは多い。大学の研究室で出会い、結婚した例は、私のまわりでもいくつか知っている。
仮に結婚するとして、人生のパートナーが創作のパートナーと一致するかどうかは、結婚してみなければわからない。少なくとも、いまいえることは、人生も創作も、一人では到底やっていけないということ。
まずは創作について。学生時代は映画を撮っていて、ここ数年は恋愛ゲームをつくっている。しばらくはゲーム制作を続けるつもりだけれど、映画を諦めたわけではない。ゲームにも映画にもこだわりはない。つくりたいものは無数にあり、ひとつずつ形にしていきたいと思っている。今は、幸いにして一人じゃない。作品に関わってくれる人たちがいる。とはいえ、長い目で見た場合、明らかに私がボトルネックになっている。作業工程としてのボトルネックでもあるし、もう少し広い意味もある。新海誠監督が今も個人制作を続けていたら、3年に一度のペースで劇場映画をつくることは、いろんな意味で不可能だったはず。
次に人生について。こちらは、基本的には一人である。いま、新宿の一人暮らしのマンションで、このエッセィを書いている。恋人は過去にいたけれど、同棲したことは一度もない。友達とはときどき会う。みんな、程よい距離感である。今の人生に大きな不満はない。けれど、一人では生きていけないという漠然とした予感がある。不安、と書いたほうが正しいのかもしれないけれど、そのようにネガティブな感情はあまりない。たぶん、俗にいう結婚願望というやつなのだろう。
創作のパートナーと人生のパートナーを同一視することが果たして正しいのか、という問いは残る。ノーランとエマのようなケースはきわめて例外的、というか理想的であって、実際のところ、夫の創作活動を、妻は家庭の面で支える、という古式ゆかしい例はそれなりに多いのだろう。クリエイターを目指すなら看護師と結婚しろ、という本気か冗談かよくわからない冗談を聞いたこともある。
それでも、創作と人生を切り離すことはできないな、と私は思う。私の人生に関わる人は、私の創作と無関係ではいられない。私と付き合った人は全員、恋愛ゲームの元ネタにされる。というのは冗談だけれど、でも、そんな冗談に苦笑しつつも、実は内心まんざらでもない、くらいの人のほうが、お互い楽しいのではないか。森博嗣先生は、ことあるごとに奥様のことをエッセィに書いている。あれは本人に許可を取っているのだろうか? たぶん、無許可だと思う。
生きることとつくることは私にとってほとんど同じことであって、それをあえて分けて論じることに違和感がある、というのが正直なところ。つまり、私の未来のパートナーもまた、似たような価値観を持っている可能性が高い。今まで付き合った人は残念ながら、その点で合わなかった。相手を責めているのではない。私に覚悟が足りなかったのだ。この数年で私は変わった。どんなことがあろうとも創作を辞めることはない。というか、辞めたくても辞められない。死にたくても死ねないのと同じ。
と、私は思っているけれど、たぶん、まわりからはそのように見えていないと思う。作品をつくるのには数年かかる。数年前に変わった私を、あなたはきっとまだ知らない。いまつくっている新作には、そのような覚悟を多少は盛り込んだつもりだ。広義のラブレター、といえなくもない。