ちょっとここで名前を出すのは憚られる。いや、いっそ出してしまおうか? 何様だよと思われるのが怖くて名前を出せない。もっと強くなったら言えるだろうか。いや、それもダサい。とにかく、今は言える気がしない。許してほしい。
そうだ、言っても差し支えない人がひとり、いた。『冴えない彼女の育てかた(冴えカノ)』の主人公・安芸倫也である。私が恋愛ゲームをつくるきっかけになった、因縁の人物だ。冴えカノを観た当時、私はほとんど創作を諦めていた。前に勤めていたゲーム会社がつらくなって転職して、創作とは一切関係のない大企業でぬくぬくと仕事していた。給料もよく、寮があって家賃は実質タダだったから、このまま仕事を続けていけば不自由のない幸せな生活が約束されていた。当時は付き合っていた彼女もいた。いわゆる「勝ち組」だった。そんな幸せを、安芸倫也は破壊した。
安芸倫也、またの名を倫理君は、ある日突然「ギャルゲーをつくりたい」と言い出した。のちのヒロイン、加藤恵に出会い、彼女をモデルにしてギャルゲーをつくるというのだ。イラストレーター、シナリオライター、作曲家(全員天才美少女)をあちこちから集めてきて、ゲームをつくり始めた。その姿に嫉妬した。純粋な気持ちでものづくりをする姿が眩しかった。それも、ただの思い出づくりではなくて、本当に面白いものを、みんなで、つくろうとしていた。自分が一度は諦めたことに、本気で取り組んでいる人たちが目の前にいる。じっとしていられるはずがなかった。
倫理君に負けていられない、と思った。アニメの世界の話だから、実際にはうまくいくことばかりじゃない。そんなことはわかっている。でも、負けたくなかったのだ。というか、このままでは勝負の土俵にすら上がれない。勝負すらせず、戦うことすら放棄して、人生を終えてしまうかもしれない。それだけは耐えられなかった。負けてもいい。惨めでもいい。まずは、戦わなければ。そう思った。
そんなふうにして、私を奮い立たせてくれる人が、たまに現れる。それは本当にふとしたきっかけだったりする。冴えカノを観る前はギャルゲーはおろか、アニメにすらほとんど興味がなかった。アニメのキャラをライバル視するだなんて、かつての私が聞いたら絶対に信じないだろう。そのような出会いはいつ、どこに訪れるかわからない。でも、会えばすぐにわかる。あ、この人は自分の人生を変えてしまう魔力を持つ人なのだ、と。直感がそう囁く。そのような出会いは決して多くはない。たぶん、片手で数えられるくらい。そのひとりが倫理君だった。
もしかしたら、ともに創作をする仲間よりも、ライバルに出会うほうが難しいかもしれない。仲間は、最悪、土下座で頼み込めばなんとかなる。でも、ライバルにはそう簡単になれるものじゃない。直感が必要なのだ。こちらが相手をライバルと認めることは難しいけれど、相手がこちらをライバルと認めることも同じく、あるいはそれ以上に難しい。ともにライバルと思える関係は、ほとんど天文学的な確率によってもたらされる。
少なくとも、倫理君が私をライバル視する確率はゼロだ。冴えカノはもう完結している。物語の中に私の名前は出てこない。倫理君は、私の存在をそもそも知らない。だから、それ以外の数名が候補になる。きっと、その数名にとって、私など視界にすら入っていない。まだまだ、全然、だめだ。身の程知らずだと思う。もっと小さなところから攻めるべきだとも思う。でも、「この人は生涯のライバルになる」という鮮烈な直感はどうしたって書き換えることができない。捨てようと思って捨てられる感情じゃない。それを抱えたまま、生きていかなければならない。つくっていかなければならない。
こんなことを伝えたら、ライバルたちは呆れたように笑うだろう。そんな大袈裟な、と。本当に、呆れるくらい大袈裟である。でも、少なくとも、倫理君はそれくらい大袈裟だった。加藤恵に一目惚れして、彼女をモデルにギャルゲーをつくり始めたのだ。それくらい大袈裟でなければ倫理君には到底、敵わない。それにきっと、みんな、それくらいのことは思っているはずだ。恥ずかしいからあまり話さないだろうけれど、でも、穏やかな笑顔の下に、たしかに燃えている炎が見える。その炎が、私に引火したのだ。
だから、責任を取ってもらわなければならない。火の粉がこっちにまで飛んできて、私をごうごうと燃やしている。炎はもはや制御できない。ならばいっそ、灰になるまで一緒に燃え尽きよう。ひとつの巨大の火の渦となり、世界を燃やし尽くすのだ。と、恥ずかしいセリフを聞かされて苦笑いをするその人の顔が、浮かんだ。