私は新海誠監督のファンである。『秒速5センチメートル』で心を砕かれたのをきっかけに、ほとんど全ての作品を追いかけてきた。そろそろ新作のアナウンスがある頃だろう。楽しみで仕方がない。
新海さんがその名を世界的に知らしめたのは2016年、『君の名は。』の大ヒットがきっかけだった。その前もコアなファンには支持されていたようだけれど、『君の名は。』のおかげですっかり世界的な映画監督になってしまった。
『君の名は。』以降の新海さんを批判する声も少なくない。それまでの繊細でクローズドな作風を捨て、すっかり商業主義に染まってしまった、という意見はわからなくもないが、個人的にはヒットを生み出したあとの新海作品も好きだし、インディーズ的な反骨精神や子供のような純粋さは今もたしかに残っている。というか、むしろ、その傾向はますます強まっているのではないか。新海誠の名前に安住しない、私が新海さんのファンである大きな理由のひとつである。
とはいえ。
新海誠の名前は、あまりに有名になってしまった。私は、新海誠という作家は、常にその名前の意味を更新し続ける野心家であると信じている。でも、世間はそのようには思わないだろう。新海誠という存在の放つ淡い光を皆、追い求めている。かくいう私も新海さんの作風には大いに影響を受けてきた。
そろそろ、次の新海誠が現れてもいいのに、と思う。何をもって「次の新海誠」を定義するかは難しいところだが、まあ、気持ちの問題だ。新海さんのような鮮烈な輝きを放つ作家をしばらく見ていないような気がする。
もちろん、優秀な若い映画監督はいる。でも、なんというか、みんな「優秀」なのだ。そう、優秀。私は、新海誠の優秀さに惹かれたのではない。むしろ、優秀でないからこそ好きなのかもしれない。
新海さんは、既存のアニメ業界の枠に収まらない才能としてキャリアをスタートした。業界の常識から見れば「落第生」である。こんなことも知らないのか、こんなこともできないのか、と言われたことだろう。およそ優秀とはいえない若きクリエイターが、会社を辞めてたったひとりでアニメをつくり、世間をどよめかせた。
最近のクリエイターは皆「優秀」だ。基礎を学び、トレンドを追い、市場の求めているものをきちんと理解した上で、自分自身を適切にブランディングし、商品として届ける。売れている人はだいたいそのようにしている。時代の生存戦略としては極めて妥当だろう。なんというか、みんな頭が良い。すごいなあと思う。でも、面白いなあ、とはあまり思わない。
新海さんは逆だ。すごいなあとは思わないけれど、面白いなあとは思う。「おもしれー女」ならぬ「おもしれー誠」か(すみません)。
新海さんの何が面白いかを言語化するのは難しい。言語化できるものは模倣できるからだ。新海さんの面白さを真似ることはできない。新海作品よりも美麗な背景で、より哲学的なモノローグを描き出す人はいる。でも、新海さんの面白さには及ばない。というか、勝負の土俵にすら立っていない。新海誠の面白さは、背景の美しさやモノローグの深みだけで測れるものではない。新海誠の構成要素を分解して、ブラッシュアップし、再構築すれば新海誠に勝てるわけではない。還元主義で到達できるところに新海さんはいない。
やはり、「次の新海誠」になるための条件などなさそうだ。強いて言えば、「優秀でないこと」は必要条件かもしれない。優秀な人はあちこちから引っ張りだこになる。需要に応じて器用に振る舞える。器用さと作家性を両立するのは至難の業だと思われる。今でこそ華々しい評価を向けられる新海さんだが、ヒット前の作品群は散々に言われていた。『すずめの戸締まり』だって、批判の声は少なくない。むしろ、あえて叩かれにいっているようにすら見える。そういうところが好きだな、と思う。
多くのクリエイターがエリート街道を進む昨今、優秀でないことは案外、強みになるかもしれない。映画の道に挫折し、なんとか入ったゲーム会社を逃げるように辞め、一度は創作を諦めたもののなぜか恋愛ゲームをつくり始め、完成させるために会社を辞め、婚約者とも別れ、それでも飽き足らずに続編をつくり、またしても変なことをやろうとしている私のような落ちこぼれにもチャンスがあると思うのは、ちょっと強気すぎるかな。まあ言うだけタダだよね。嘘から出たまことと言うし。