昨晩起きた事件について

池田大輝
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公開:2025/9/16

今朝は粗大ゴミの収集日だった。したがって、池田大輝は、昨日、9月15日のうちにゴミを運び出す必要があった。収集を依頼した品目は5点。幅のあるローテーブル、トースター、そして、少し背が低い収納用ラックが3つ。いずれも事前にネットで収集申し込みと支払いを済ませていた。

所定の用紙を貼り付けたのち、まずは、ローテーブルを運ぶことにした。幅は120センチほど。重量もそれなりにある。一人で運ぶにはややハードだ。扉や壁を傷つけないように、慎重にローテーブルと身体を動かす。部屋を出る際、次に運び出す家具のことも考えて、自室の扉を少し開けたままにした。共用部のエントランスを抜け、少し歩いたところにゴミステーションがある。居住者専用の収集ボックスが2つ。ローテーブルは、その中ではなく、横にある広いスペースに置いた。

次はトースターを運ぼう、と思いながら、自室に戻る。共用部のエントランスを抜け——ようとしたとき、池田はあることに気がついた。鍵がない。ポケットを漁る。やはり、ない。ローテーブルを運び出すことに夢中のあまり、鍵を携帯し忘れたのだ。しまった、と思った。今の住居に住み始めて、もうすぐ4年になる。このような失敗は一度もなかった。もう一度、鍵を探してみるが、前後左右、どのポケットにも入っていない。時刻は20時を少し過ぎた頃。じめじめとした風を浴びながら、オートロックの防犯性の高さを恨めしく思った。

とはいえ、大した問題ではないだろう、と、このときはまだ楽観していた。池田の住むマンションには、20以上の部屋がある。仮に満室でなかったとしても、十数世帯は住んでいるはずであり、つまり、10分も待てば、住人の一人くらいはここを通ると思われた。三連休の夜である。帰宅する人や、コンビニに買い物に行く人がいてもおかしくない。どちらかといえば、誰かがマンションを出ていくタイミングに便乗したいと思った。帰宅した人の後をつけて忍び込むのは、いかにも不審であるし、「すみません、鍵を持ち忘れてしまって……」と話しかけるのも、多少はマシかもしれないけれど、不審であることには変わりない。誰かが軽くお腹を空かせて、コンビニに出かけることを祈った。

しかし、30分が経っても、住人は誰一人、現れない。建物を出る人はおろか、帰ってくる人もいない。人の気配というものが、この夜に限っては全くなかった。幸いにして、池田のマンションは、道路から少し離れたところに建物がある。車が数台停められる広さの駐車場のような場所(ただし駐車禁止)があり、建物自体はその奥にある。ゴミステーションは、この駐車場の一角にある。エントランスは、駐車場からさらに奥まった場所にあり、手前の住宅に阻まれ、対面する道路からは見えない。だから、エントランス前でうろうろしている姿を、ほとんど誰にも見られずに済んだ。ただし、隣には、少しの距離を隔てて別のアパートがあり、そこにはいくらか人の気配があった。会話が聞こえたり、また、洗濯物を取り込むために、ベランダに現れる姿をたまに見かけた。不審者だと思われないように、物陰に姿を隠したり、配送業者をそれとなく演じてみたりした。けれど、相変わらず住人は来ない。そうして、時刻は21時を回ろうとしていた。

持ち忘れたのは鍵だけではなかった。スマートフォンも自室に置いてきた。友人や管理会社に電話をかけることもできない。コンビニかどこかで電話を借りたとして、そもそも電話番号がわからない。もっとも、管理会社に電話すると、なんらかの費用を請求される可能性が高い。いずれにせよ、電話はできなかった。身につけているのは、衣服とスマートウォッチのみ。スマートウォッチは、部屋からやや離れているためか、スマホとの接続は切れていた。せいぜい、心拍数や歩数を確認できる程度。このときの心拍数は80くらいで、不安な気持ちに反して案外、ドキドキしていないんだな、と思った。

このままでは、外で夜を明かすことになる。いよいよ危機感を覚えた池田は、できれば打ちたくなかった手を打つことにした。ほかの部屋のインターホンを鳴らすのだ。池田の部屋は一階にある。一階には、7部屋ほどがある。インターホンを鳴らし、鍵を持ち忘れたことを伝えれば、誰か一人くらいは開けてくれるだろう。そう考えて、恐る恐る、101号室のインターホンを鳴らした。聞き馴染みのある音が鳴る。「こちら側」から聞くのは初めてだった。10コールほど待って、池田はインターホンの「取消」ボタンを押した。101号室の住人は応じなかった。そして、残りの一階の部屋も鳴らしてみたけれど、どの部屋からも反応はなかった。気持ちはわかる。三連休の最終日の夜に、くたびれた顔の人物がインターホンを鳴らせば、怪しむのが当然だ。なお、二階以上の部屋にはかけなかった。なんとなく、うまくいく気がしなかった。不安は焦りに変わり、焦りは絶望に変わろうとしていた、その時——

なにかが視界を掠めた。

小さく、白く、軽やかに動くそれは——

猫だった。真っ白な毛並みの、おそらく、野良猫。エントランスからもう少し奥に駐輪場がある。立ち並ぶ自転車の陰に、その猫はいた。隣のアパートから出てきたらしかった。薄ぼんやりとしたオレンジ色の照明の中で、猫は池田をじっと見つめていた。エントランスの陰から、池田は猫を見つめ返す。すると、猫は、自転車の隙間をかいくぐり、建物のほうへ近づく。そして、フェンスの下の、高さ10センチほどの隙間を抜けて、マンションの廊下へ侵入した。

少し時間をおいたのち、池田は猫の様子を確認しようとしたけれど、猫はいなかった。そういえば、と、池田は思う。猫がくぐったフェンスを乗り越えることはできないだろうか。フェンスの高さは150センチをゆうに超える。足をかけられそうな場所もない。猫が通った隙間は、どう考えても通れそうにない。そもそも、フェンスを乗り越えるのは、きわめてリスクが高い。万が一、住人に目撃されれば、通報されること間違いなしである。警察沙汰だけは御免だ。一応、防犯カメラの類がないことは、すでに確認していた。とはいえ——

フェンスの様子を観察しながら、ふと、少し開いた自室のドアを見た。以降のゴミの運び出しをスムーズに進めるために、金具をかませて開けておいたドア。黄色い照明がまばゆく漏れる。隙間の幅は、10センチに満たないくらい。

猫が——入った?

まさか——と思うが、しかし、考えれば考えるほど合点がいく。建物に侵入した猫を、それから見ていない。猫から目を離した時間は、せいぜい1、2分程度。その間に、すっかりどこかへ去った可能性も充分にある。けれど、部屋に入った可能性も同じ程度にはあるのではないか。池田は猫を飼ったことがない。猫が、開けっぱなしのドアから見知らぬ部屋に侵入する生き物かどうかは見当がつかない。それでも、このときの切迫した心理状態は、部屋の中を荒らしまくる純白の野良猫を想像するにはあまりにも充分だった。

猫を飼う。そんなことは今まで想像しなかった——わけではないけれど、少なくとも、このマンションはペット禁止であるし、それに、動物を飼うことへの責任を果たせるような人間ではないと思っていた。もしも、猫が侵入していたらどうすればいいのだろう。追い出すか? もし、懐かれたら? 猫は懐かないと聞いたことがある。でも、万が一ということもある。部屋に侵入して、たとえば、浴槽かどこかに嵌って抜け出せなくなっていたら? 屋外に「閉じ込められた」家主と同じく、猫も閉じ込められているかもしれない。似た者同士、まずは生き延びよう。そう、思った。

気がつけば、時刻は22時を回っていた。結局、住人は誰一人、一度たりとも現れなかった。そして、ついに、池田大輝は、実に驚くべき方法によって、この「密室」から脱出した。その方法をここで語ることはできない。一応、補足しておくと、住人とは、本当に一度も会っていない。それ以外の人間に会うこともなかった。また、脱出に際し、ドアや鍵を破壊することもしなかった。自室の窓は施錠されており、ベランダから帰還することはできない。開いているのは玄関の扉だけだった。

自室に戻り、ざっと室内を見回すと、猫はいなかった。ほっと胸を撫で下ろし、そして、トースターとラックをすぐにゴミステーションへ運び出した。今回は、ちゃんと鍵を携帯して。それから、マクドナルドへ向かい、てりやきマックバーガーをいただいた。この日、二度目のマックであった。一度目は、月見バーガーを食べた。一日に二度マックに行くことなんて滅多にない。それくらい、へとへとだった。結局、帰宅したのは23時半頃。倒れるように、眠りについた。

以上が事件の顛末である。やれやれ。鍵を忘れるなんて、小学生じゃあるまいし。ちなみに、ここに書いたことは本当だ。脱出のトリックを書いていないのは、書くとまずいからだ。正解した人にだけは、こっそり答えを教えるかも。でも、この事件の本当の謎は、もうひとつのほうにある。偉そうにこれを書いている人間でさえ、本当の答えを見つけていない。にゃは、人間は愚かだにゃあ。真実を知っているのは吾輩だけにゃ。白きふわふわの羽根を纏ったシュレディンガーの悪魔より。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。毎日21時頃にエッセィを更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink