演じることでしか生きていけない

池田大輝
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公開:2025/5/26

日々書いているこのエッセィは私の本心を綴ったものではない。本心とは、たとえば、唐揚げが食べたいとか、そういうことであるが、そんなことをわざわざ書かない。それに、本心はひとつじゃない。唐揚げを食べたいと書いたが、別にそんなに食べたくもない。唐揚げよりも食べたいものはある。唐揚げを食べたい気持ちは全くの嘘とも言えないし、さらりと例示するのに適切だと判断したので書いた。ここには書けない本心は山ほどある。ひとつくらい書いてみようか? いや、だめだ。そんなことを書いたら人生が終わる。本心とは、そういうものだ。

では、ここに書いていることはなにか? 私もよくわからない。私のことを知ってもらい、長い目でファンを増やしたいという目的はある。ただ、そのためになにを書けば良いのかはいまいちわからない。なにも書かないよりかはましだろうと思って、とりあえずエッセィを書いている。

簡単に言えば、仕事である。自己満足で書いているのではなく、少し先の未来へ向けた投資みたいなものだ。私のことを文章を書くのが好きな人と思っている人もいるかもしれない。嫌いではないけれど、好きでもない。文章は私にとって、あらゆるアウトプットのうち比較的手軽に書けるという点において有利である。それだけの話。

ここに書いたことは嘘じゃない。本心とは限らないけれど、あえて嘘を書いたわけでもない。嘘じゃないなら真実か、と問われるとちょっと難しい。あえて言葉にするならば「このエッセィという空間においては真実」とでも言おうか。

これを書いている人格は、池田大輝そのものではない。私の一部、とも限らない。これを書いているのは「これを書いている私」だ。それ以上、説明のしようがない。

あえて言葉にするならば、演じている、という表現がしっくりくる。ただし、舞台の上で役を演じるようなアグレッシブな感じではない。もっと、受動的なイメージ。そうせざるを得ない。そうしないと書けないのだ。

要領を得ないことだろう。私もそう思う。鏡のない世界で、私の外見について語ろうとしているのと同じだ。語り得ないものについては沈黙しなければならないのに、あれこれ書こうとするからこうなる。私は私について語ることはできない。私以外の誰かによって語られることしかできない。だから、私ではない誰かを演じることで、私について語ることができる。

物語を書くことは楽しい。それはたぶん、私ではない誰かを演じられるからだ。楽しいというか、落ち着くのだ。私という得体の知れない一人称で在り続けることは苦痛だ。私という肉体から逃れることはできない。ならばせめて、精神だけでも自由になりたい。誰かを演じることで、一時的にそれが可能になる。

ただし、一時的に、だ。この舞台が終わればまた私として生きることを強いられる。だから演じ続けなければならない。演じ続けることでしか自由になることはできない。演じ続けることでしか生きることはできない。

池田大輝は死んだ。そんな人間は存在しない。存在しない者にあれこれ求めないでほしい。こんなつまらない現実に浮遊するちっぽけな亡霊のことは忘れて。もっと自由で、果てのない世界に私はいる。ここではない、遠い世界。本当に楽しい。どこまでだって行ける気がする。だから一緒に行こう。私たちは舞台の上でならどこまでも行けるんだから。


ちょっと芝居くさすぎる? クレームは私ではなく、演出家までお願いします。芝居が下手に見える原因の9割は演出家の思い上がりである。

@radish2951
恋愛ゲーム作家。エッセィを毎日更新しています。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink