バイトであれ派遣であれ正社員であれ、一度でも働いたことのある人ならわかると思うけれど、仕事というものは基本的に誰かの指示に従う行為である。
ほとんどの仕事にはマニュアルがある。誰がやっても同じ結果になるように、大きな組織ほどマニュアルが整備されている。マクドナルドのマニュアルは、かなり洗練されていると聞いたことがある。デザイナーやアニメーターのような創造的な仕事であっても、好きに絵を描いて良いわけではない。あくまでも指示が先にあって、その要求を満たすものを納品しなければならない。
例外としては、研究者や一部のクリエイターが挙げられる。誰に指示されるわけでもなく、自ら考えて研究や創作をする。仕事としてそれをすること、つまり自発的な研究や創作でお金を稼ぐことは簡単ではない。世の中のほとんどの仕事は、誰かの指示通りに行動することに対して報酬が支払われている。不自由を差し出す代わりに、お金という名の自由を得る行為。それが仕事だ。
最近は、このような考え方が主流になりつつあると感じている。一昔前は、命を懸けて働くことこそが人生であるという狂った価値観が当たり前に受け入れられていたようだけれど、最近の若い人は賢いらしく、仕事を仕事と割り切る人が多数派に見える。コンプライアンスというやつだ。労働は生きるための手段でしかなく、したがって、手段がその人の人権を奪ってしまわないように、法律が整備されている。
業務用のパソコンは、業務にしか使用してはいけない。退職するときに、お土産としてもらうことはできない。まともな会社なら、この程度のコンプライアンスは当然のように整備されている。仕事とプライベートは別物、という意識は、かなり高まっている。公私混同は許されない。
はずなのに、なぜか、当たり前のように公私混同で使用されているものがひとつある。名前だ。
名前は、その人そのものをあらわす。名前以外に、その人をあらわすものはないと言っても良い。名前を喪えば、この世界で生きていくことはきわめて難しくなる。
それほど大事な名前を、労働という制度は無償で搾取している。搾取であればまだマシで、労働における失敗や怠慢が、その人自身の名前で裁かれることが少なくない。もちろん犯罪は別。だけれど、昨今の厳密なコンプライアンスに照らすと、労働者としての名前を、その人からタダで借りているのはきわめてアンフェアに思えてならない。
業務のために業務用パソコンが用意できるなら、仕事のために仕事用の名前を会社は与えるべきではないか。社員番号みたいなものだ。会社という組織において、その労働者を特定する名前。コードネームと言っても良い。本名である必要は基本的にはないはずだ。
研究者やクリエイターなど、「名前で」仕事をする職業については、名前がきわめて重要になる。業績が名前に紐づけられるからだ。けれど、ほとんどの仕事はそうではない。誰がやっても同じアウトプットになるように標準化されている。誰がその仕事をするのかは関係ない。そんな仕事に、大切な名前を捧げる必要はないはずだ。あなたの価値は、仕事で決まるわけではない。
もし、私が会社をつくることがあったら、名前については次の制度を導入しようと思う。わが社に所属する者は、業務に使用する名前を、本名とコードネームのいずれかから選ぶことができる。コードネームについては、自ら希望しても良いし、代表者(池田)による命名を選ぶこともできる。その場合、ジンとかウォッカとかバーボンといった名前が付与される。これを、選択的コードネーム制度と呼ぶ。