誰かを演じるために、私でなければならない

池田大輝
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公開:2025/3/16

役者というのは不思議な職業だな、と思う。自分以外の誰かを演じることが仕事なわけだから、その人自身はできるだけ無個性で、平均的なほうが良さそうに思われる。けれど、実際の役者の多くは、一般人とは違うオーラのようなものを放っていて、およそ平均的な人間ではないように(少なくとも平均的な人間である私からは)見える。それどころか、きわめて個性的な特徴を持った、あるいはそのように自身をブランディングしている人も少なくない。これは、誰かを「演じる」ことと矛盾しているようにも見える。

しかし、考えてみると、「どんなキャラクターをも完璧に演じることのできる役者」はおそらく存在しない。声や外見を大きく変えることはできないから、たとえば、80歳の男性俳優が10歳の女子小学生を演じることは、それが意図的な演出でない限り難しいだろう。そこまで極端でなくとも、演じることのできる役に限界があることは容易に想像がつく。外見からは想像できないような声を出したり芝居をする人もいる。もちろん、それはすごいのだけれど、とはいえ、限界はあるだろう。

役を演じることは、ただ声を似せるとか、動きを模倣することではない。それだけならAIでも可能である。AIにとって、なにかを表面的に模倣することはむしろ簡単だ。AIにはなくて、生身の役者にはあるもの。それは「役者がその人自身である」こと、言い換えれば「アイデンティティ」だ。アイデンティティには、たとえば、その人の声や外見も含まれる。けれど、ここで言いたいのは、そのような「特徴」よりも、むしろ「その人そのものである」ということ、言い換えれば「交換不可能性」だ。

役者とキャラクターの結びつきは、少なくとも観客には、きわめて自明の関係として映る。実写作品であれば、それはほとんど疑いようがない。役者がキャラクターを演じているという「事実」を観客は了解した上で、それが演技だと理解した上で、スクリーンに映し出される「フィクション」を楽しむ。アニメなどでは、その自明性は多少は薄れるかもしれないけれど、それでも、声優がキャラクターに声を吹き込んでいるという「事実」を、観客は当たり前のこととして受け入れる。

制作者は、その「自明の関係」をどの程度強調するか、多少はコントロールすることができる。たとえば、アニメにおける「モブキャラ」、つまりメインではない、ほんのちょっとだけ登場する脇役には、極端な個性の声を当てることはあまりない。逆に、主役級のキャラであれば、キャラクターよりも声優の名前が大きく宣伝されることも珍しくない。そのような差はあれど、とはいえ、役者がキャラクターを演じているという「事実」に変わりはなく、つまり、キャラクターのアイデンティティと役者のアイデンティティは切っても切り離せない関係にある、といえる。

それは、考えてみれば、とんでもなく「重い」繋がりである。フィクションの存在であるにせよ、ひとりのキャラクターのアイデンティティを担うことは、一般人には想像のつかない重圧があるのかもしれない。ただ声を似せたり動きを真似たりするわけではないということは、つまり、それ以上の「なにか」をキャラクターに分け与えるということであり、それがなんにせよ、分け与えるための「なにか」を、役者は持っていなければならないということになる。それがすなわち、役者の「アイデンティティ」にほかならないのだと思う。

キャラクターを演じるためには、キャラクターのことを知らなければならない。それくらいは誰にでも想像がつく。けれど、きっとそれだけでは不充分で、キャラクターを演じる「私」のこともまた、知る必要があるのだろう。それは、喩えるなら、生徒に学問を教える先生は、生徒以上に学ばなければならないのに似ている。教えることは、学ぶことに似ている。演じることは、知ることに似ている。「誰か」を演じることで、「私」を知ることができる。「私」を知ることで、またほかの「誰か」を演じることができる。そのようなサイクルを楽しめる人は、きっと役者に向いているのだろう。

@radish2951
ゲーム作家。恋愛ゲーム『さくらいろテトラプリズム』をよろしくお願いします。 daiki.pink