ずっと理解者が欲しいと思ってきた。私を理解して、高みへと連れて行ってくれる人。その気持ちは今もあまり変わらない。けれど、ここのところ少しずつ、その考えが変わりつつある。
まず、私は誰かの指示に従うことが極端に苦手なようである。ああしろ、こうしろ、と言われると、真逆のことをやりたくなってしまう。あえて困らせようとしているわけではない。脳が、そのようにできているらしい。だから、たとえば学生時代のアルバイトなんかでは、全く使い物にならなかった。なぜ言われたとおりにできないのか、と、数え切れないほど叱られた。
他人に従えないのなら、自分でなんとかするしかない。ということで、ここ数年は個人でゲームをつくったりしている。というか、遡ると、中学生くらいの頃から、自宅のビデオカメラで映画を撮り始めて、今の活動もその延長線上にある。映画を撮れ、ゲームをつくれと誰かに言われたことはない。勝手に、好きなようにやっている。私にとって、それは当たり前のことだった。だから、社会に出るまで、それが如何に変なことであるかを、全く知らなかった。
それを理解し始めたのが数年前。生きづらさに打ちのめされ、救いを求めていた。とはいえ、そう簡単に手を差し伸べてもらえたりはしない。ならばもう、一人で生きていくしかないのだと、塞ぎ込んでいた時期もあった。当然、それでうまくいくはずもなく、とにかく、この数年は悲惨だった。
誰かに従うことも、自立することもできない。では、どうすれば良いのか。それが、私が今まさに立ち向かっているテーマである。答えはまだ見つかっていない。簡単に見つかるとも思えない。ただ、不思議と絶望はない。むしろ、どこか晴れやかな、軽やかな心地が身体を纏っているような気さえする。
この気持ちはなんだろう。あえて喩えるなら、誰かが手綱を握ってくれているような感覚、といえば良いか。馬のことはよくわからないけれど、私の知る限り、手綱は、平常時にはぶらんとしている。つまり、手綱は通常、馬にとって、存在しないものである。走れ、とか、止まれ、という指示を伝える場合にのみ、騎手は手綱を強く振るう。
大事なのは、ぶらりとしている手綱を誰かが握っているということだ。なぜか、これが、支配とか従属といったネガティブなイメージではなく、もっと健全な関係に私には見える。馬車馬のように働くという比喩においては、馬は単なる労働力だ。馬車に乗っている人間のために、馬が労働力を提供する。でも、馬に乗ることは、それよりももっと複雑な関係に思える。簡単に言えば、一心同体、あるいは、一蓮托生といったイメージに近い。
これも想像だけれど、優秀な騎手は、常に手綱を引っ張ったりはしないのだろう。むしろ、できるだけ馬に、自然に身を任せるのではないか。それは、たとえば、熟練のドライバーが無闇にブレーキを踏まないように。馬をコントロールするのではなく、信頼するからこそ、速く、遠くまで行けることを知っている。
私が求めていたのは、優れた騎手なのかもしれない。不必要に干渉はしない。でも、手綱を離したりはしない。そういう信頼関係は、簡単に築けるものではないだろう。理想の騎手にどうすれば出会えるのか、そもそも存在するのか、全然わからない。あるいは、そもそも、私は馬ではなく、実は騎手なのかもしれない。騎手の気持ちを想像するとわかる。知らない馬に跨ることが如何に恐ろしいか。果たして、騎手と馬はどのように信頼関係を築いているのか。そこに、生きるヒントがあるかもしれない。競馬を始めてみようかな。それとも、ウマ娘のほうが良い?