悲しい夜にこんばんは。たまにはこんな日があってもいいよね。ここのところ、ものすごく忙しくて、エッセィを書いている場合ではなかった。それでも、毎日書くと決めた以上、書かないわけにはいかないから、そのときに思ったことを、ものすごく適当に、ここ1ヶ月くらいは書いていた。でも、そのせいか、物足りなさを感じていて、それはもしかしたらあなたも同じかもしれなくて、だから、たまには、冷たい夜風を浴びながらミルクコーヒーを飲むみたいに、贅沢に書いてみたいと思った次第。
最近のエッセィは、ほとんど同じことしか書いていない。それは、たとえば、運命について。運命を説明するのは難しい。似た言葉に「運」がある。偶然とか、宿命とか、とにかく、そういうもの。自分の力ではどうすることもできない、避けられないさだめというものがあって、死は、たとえば、誰にも等しく訪れる運命である。生きなければならない、という運命に、すでに導かれていると言い換えることもできる。
そういうことを、ここ数年で、実感してきた。本当に、運命に導かれているとしか言いようのない人生だった。運命というものが強大すぎて、私がいかに無力であるかを思い知った。大学生くらいまでは、謎の全能感があった。それが、跡形もなく消えた。別に、ネガティブな意味だけではない。むしろ、良い意味である。ゲームをつくりたいだなんて一度も思ったことがないのに、なぜかゲーム会社に入り、今もゲームをつくっている。そのおかげで出会えた人、出会えた仕事がたくさんある(いる)。少し前に、研究の仕事に就いたのだけれど、ゲームをつくっているから技術力があるだろう、という評価が多少、あったらしい。学生時代は映画監督を目指していたけれど、映画の道に進んでいたら、あり得なかったルートだろう。というか、ゲームのおかげで、映画のお仕事もさせていただいた。アニメーション映画『我々は宇宙人』の背景美術で参加させていただいている。こんなことがあるだなんて、想像すらしていなかった。東京藝大出身の監督の下で、東工大出身の変な人が絵を描いている。運命のいたずら以外に、説明がつかない。
もちろん、良いことばかりではない。ここには書きたくないような酷いこともたくさんあった。申し訳ない気持ちにずっと苛まれてきた。運命を呪うこともあった。でも、それ以上は、どうすることもできなかった。とにかく、無力で、惨めで、情けなくて、それでも、死にたいわけではないし、死ぬわけにはいかないし、なんとかして生きなければならないから、せめて運命に殺されることだけはないように、必死に生きてきた。
本当に、呆れるくらいに無力だ。ただ運命に身を任せることしかできない。本当に、心の底から、そう思う。結構、色々やってきた。エッセィに書けることなんて、全体の1%くらいしかないわけで、つまり、あなたが想像する100倍くらいのことをやってきたけれど、それでも、思い通りになることなんてほとんどなかった。あるいは、言い換えれば、思い通りにしかならなかったといえるかもしれない。
きっとこうなるんだろうな、という運命、あるいは直感めいたものを感じ始めたのは、3年くらい前から。ちょうど『さくらいろテトラプリズム』をつくり始めた時期だ。完成のイメージは、最初からできていた。3年かけて、少しずつ近づいているけれど、まだ、全然、辿り着いていない。一生、到達することはないのだろう。そうやって、導かれるような感覚が、ここ数年はずっとある。その正体はよくわからない。別に、たかがゲームなんだから、つくるも辞めるも自由なのに、誰に強制されているわけでもないのに、つくらない選択肢はなかった。本当に、不思議だった。情熱とか、意地とか、そういうのがゼロではないけれど、でも、もっと、ただ純粋に導かれるような感覚、身体が吸い寄せられていく感じ。私がどれだけ文句を言おうとも、辞めたくても、お金がなくても、体力がなくても、ただ、やるしかないのだ。つくるしかなかったのだ。
最近は、どちらかといえば、運命を呪うことのほうが多い。なぜ自分だけうまくいかないんだ、なぜこんなにも孤独なのだ、と。最近のエッセィは、それを誤魔化す、あるいは慰めるようなものばかり。正直、つまらない。もっと面白いことを書きたい。でも、たとえば、仮に日本が戦争に巻き込まれたとして、大切な人が日々死んでいくような状況になれば、面白いエッセィなど書けるはずがない。戦争は、抗えない運命のひとつだ。そこまで自明ではないけれど、しかし、戦争以上に抗い難い運命が、この世界にはたくさんある。
結婚は、そのひとつではないだろうか。いま、少しだけ好きな人がいて、その人と結婚できたらなあ、と妄想したりもするけれど、でも、どんな手段を使ってでも想いを果たさなければならない、というのは少し、違う気がしている。結婚は運ゲーだ、と誰かが言っていた。本当にそうなんだと思う。誰と結ばれるかなんて、神様のみが知ることだろう。運命の相手と出会うまで、結婚することはできない。ただ、それだけの話なんだと思う。マッチングアプリで出会いを増やすとか、自分磨きをするだとか、そういうことは、運命とはほとんど、いや全く関係がない。自分でコントロールできる範囲に、運命というものは存在しない。自分でどうにかできるのは、運命に出会うまでに多少寄り道をするとか、その程度でしかなくて、いずれ行き着く先は、最初から決まっているのだ。
だから、結婚したいなとは思うけれど、結婚を焦っているわけではないし、したがって、婚活もマッチングアプリもやる予定はない。運命の人に出会うその日を、ただ、しずかに、待っている。と言いつつ、このエッセィも婚活の側面がゼロではない。このエッセィをきっかけに、私に興味を持ってくれる人が現れるかもしれない。それはそれでありがたいことだと思う。ただ、別に、たくさんの人に好かれたい、とは思わない。読んでもらえるのはありがたいけれど、不特定多数に読んでほしいわけではない。このエッセィを書いているのは、宣伝、つまり仕事のためという目的がある。それはそれとして、なんとなく、書いたほうが良い気がしているのもまた事実。せっかくなら毎日書けば、と運命が言っている。
そうじゃなかったら、とてもじゃないけれど、毎日エッセィを書くだなんてできない。そんな面倒なことをわざわざやりたくない。やりたくないけれど、やったほうがいい気がするから、やっている。書いている。とにかく、すべてがそんな感じ。きっと、不健全だと思う。やりたいことをやったほうが絶対に良い。わざわざ自分を苦しめることを、それでも、なぜか、やらなければならない。エッセィも、創作も、全部辞めてしまったところで、誰にも迷惑はかからない。いや、それは違うか。応援してくれる人がいることは知っている。そういう人を裏切ることにはなる。でも、ここで言いたいのは、もう少し違う。別に、なにをどうしようと私の勝手だ。私の自由だ。私の人生なのだから、なにをしようが構わないだろう。好きな人のところへ押しかけたって良い。本能のままに、欲望のままに、好きなことを好きなようにやることができる。でも、それはやめておけ、と囁く声がする。その声を無視することもできる。でも、できないのだ。
見えないものに導かれ、聴こえない声に囁かれ、私はいったいどうすれば良いのか。なんて、答えを知っているくせに、大袈裟に書いちゃう私は、つくづく素直じゃないよね。素直になるのは難しい。大人になるのはもっと難しい。運命は私を待っているのに、私が焦ってどうするんだろう。教えてよ、運命の女神さま。熱々のコーヒーが30秒で冷めてしまうほどの悲しい夜に、私にできることがあるのでしょうか。あるいは、夜風と同じ温度まで冷め切ったコーヒーを、あなたは祝福だと言い張るのですか。ねえ、教えてよ。