もう1年は経つだろうか。X(ツイッター)のいいね欄が他人からは見えなくなった。個人的にはありがたいアップデートだった。
数年前に、私のいいねが原因でちょっとしたトラブルになったことがある。それが引き金になって婚約破棄に至ったわけだから、ちょっとしたトラブルどころではないのだけれど。これ以上はきわめてプライベートな話なので、割愛させていただく。
ネットに公開されている情報から、あれこれ詮索されるのは、どちらかといえば嫌だ。ということもあり、こうして毎日エッセィを書くことで、あらぬ誤解や憶測を未然に防ぎたい意図もある。
いいね欄が公開されていた頃は、誰のどんなポストにいいねしていたのかが公開情報だった。一方で、いいねというものはプライベートな側面を少なからず含む。一対一のコミュニケーションの履歴が、公の情報になっていた。
ネットでのやりとりというものが、基本的には苦手だ。SNSに限った話ではない。メールとか、Discordのチャットもあまり得意ではない。なんというか、どういう気持ちで文字を送れば良いのかわからないのだ。
対面のコミュニケーションでは、そのように悩むことがない。別に、そのままにしていれば良い。ネットの場合、文字に変換するという工程が生じる。それが面倒なのではなく、あえて言葉にするなら、「私」を強制的に意識させられることに、多少の居心地の悪さがある。
それに比べると、いいねは二値のコミュニケーションである。いいねをするか、しないかの二択。伝わる情報はごく限られる。「私はあなたの投稿をいいねと思いました」という最小限の情報。
情報量が極限まで圧縮されると、「あなた」が主役になるという効果がある。無数に溢れるポストの中から、ほかでもない「あなた」をいいねと思いました、と。これは、いいねされた側にも同じことが言える。膨大な数のユーザーの中から、ほかでもない「あなた」がいいねしてくれました、と。
そう思うと、いいねはやっぱりプライベートだと思う。プライベートで、ささやかで、時に依っては切実で。それを他人が覗き見ても、極限まで削ぎ落とされた情報からは、あらぬ誤解しか生まれない。そもそも、ネットはそのような側面が強い。そういうのが嫌だから、「しずかなインターネット」というこの場所で、しずかにエッセィを書いている。
私が書いたものがすべてであり、あなたが受け取ったものが真実である。1000文字くらいの文章でさえ、しょっちゅう誤解されるのだ。バイナリ値であるいいねは、誤解を生む装置だと思うべきだろう。いいねをする理由など、誰にもわかるはずがない。それを受け取った人も、いいねをした本人でさえも。