シルベスター・スタローン、マーゴット・ロビー、ジェイソン・ステイサム、ヴィン・ディーゼル、トム・クルーズ、ライアン・レイノルズといった俳優は、主演として映画に出演すると同時に、作品のプロデュースも務めることがある。有名なのは、トム・クルーズの『ミッション・インポッシブル』シリーズだろうか。ただ、私はあまり詳しくない。個人的には、ステイサムやライアン・レイノルズが好き。マーゴット・ロビーは『バービー』の印象が強い。もうすぐ公開される映画『嵐が丘』でも、主演兼プロデュースを務めている。
主演俳優がプロデュースを兼ねるタイプの映画は、面白いと感じることが多い。おそらくは、作品に対するオーナーシップが違うのだろう。自分が主役を張る映画の主導権を握っているわけだから、中途半端なものにはしたくない。わざわざプロデュースする時点で、思い入れは相当あるだろう。逆に、誰も幸せにならないタイプの映画も少なくない。やらされ仕事感がスクリーンから伝わってくることは珍しくない。そのような作品が生まれてしまう背景は、なんとなくわからなくもない。
こうした人たちの、ある種のエネルギッシュさのようなものに憧れる。憧れるというか、学ばなければならない。私は演者ではなく、監督やプロデューサーに近い立場だ。ただ、私はこれを裏方だとは思っていない。新海誠監督は、肩書だけを見れば裏方である。けれど、新海誠という名前のブランドは、ある意味では、神木隆之介や上白石萌音の名前さえをも凌駕している。クリストファー・ノーラン監督もその系譜にあると思う。ノーランの新作は中身に依らず必ず観ることにしているファンは、私以外にもたくさんいるはずだ。
プロデューサー俳優は、まわりを見るのに長けているな、と思うことが多い。監督はともかく、プロデューサーはワンマンではやっていけない職業だと思う。それは、チームの統制もさることながら、作品の面白さにも直結する。スタッフと役者が互いを信頼しあっているから、多少無茶な演出もできる。『ミッション・インポッシブル』のメイキング映像を見るとわかる。あのようなスタントは、トム・クルーズがプロデューサーでなければできないだろう。
俳優とプロデューサー。両方の視点を持つことは、しばしば器用貧乏と揶揄される。私は俳優ではないけれど、器用貧乏の極みみたいな人間だからよくわかる。何をしている人なのか、とよく訊かれる。恋愛ゲームをつくっています、と答えることが多いけれど、ゲームクリエイターという肩書はしっくりこない。シナリオもイラストもプログラムも書いているけれど、シナリオライターもイラストレーターもプログラマもしっくりこない。このような状態が、長らくコンプレックスだった。
学生の頃は映画監督を目指していたけれど、気がつけばゲームをつくっている。ゲームクリエイターになりたいと思ったことはない。今から映画監督になりたいか、と問われると、そのような気持ちもあまりない。つくりたいゲームも映画もある。それは、ゲームクリエイターとか映画監督といった肩書に固執せずとも、成し得るものだと思っている。
とはいえ、肩書はあったほうが便利だ。プロデューサー俳優のほとんどは、まず俳優として大成して、あとからプロデュース業に進出している。正直、ちょっと羨ましい。メインの肩書が私にはない。今の勤務先の役職は研究員だけれど、研究者としての業績はまだない。さて、どうしたものか。そういえば、ステイサムは俳優になる前、高飛び込みの選手だったらしい。泳ぎの能力が『エクスペンダブルズ』の撮影で活きたとか。私も俳優デビューして、そこからプロデュースに回ろうか。こう見えて、ジャルジャルとコントで共演しているし、高校時代は映画で主演もやったのだ。主演兼プロデュース兼監督兼脚本兼科学監修兼ゲームクリエイター。余計にカオスになってしまった。どうしよう。