いちばん近くて、いちばん遠い。
自分の顔とはそういうものだ、と昔読んだ本に教えてもらった。
生まれてからずっと付き合ってきた顔にどことなく折り合いがつかないままの気持ちが、他者の言葉として文字になっている姿に、とても驚いたことをおぼえている。
女らしい顔なのかそうでないのか、美しいのか可愛いのか、それはどの程度なのか、どんな印象を与える顔なのか、自分の顔を自分で把握することはとてもむずかしい。
しかも、たまに自分の認識とは違うことを言われたりするから混乱してくる。
女に生まれたら、じーっと洗面所の鏡を見つめてみるという経験をした人間はわたしだけではないはず。
そうすると決まってなんだかこわくなってきたりもする。見れば見るほど自分の知っている顔から遠ざかってくる。
むりやり笑って、なんとか、いつもの顔ですよね、と確認したりする。
20代のときは今よりも多感で自信がなかったためにそんなことをじくじく考えたりしていたのだけれど、30過ぎてからはそれはそれとして、という前提で生きている。
顔について書きたくなったのは、先日プロのカメラマンに撮影をしてもらって、自分と顔との距離を思い出したから。
きちんと光を当ててプロが撮った写真は、普段気軽にスマホで撮る写真とは大違いの顔が写っていた。
薄暗いスタジオで撮ったとは思えないような肌の血色感と繊細な表情の違い。ほんの少しの顔の向き、角度が変わるだけで全く違う印象になる。たくさんの別人の顔が写っていた。
少しだけ左側から撮られると目力の強いややかたい表情の女が、右側からだと人懐っこそうな女がいた。顔に左右差があるのはわかっていたけど、ここまで印象が左右されるとは思ってもみなかった。
気にしていたフェイスラインも目立つ角度とそうでない角度がある。よく写っているものもあるので、あまりがっかりすることなく受け入れることができた。
ほんとうに顔って変幻自在で無数。これ、という顔がない。
ある形成外科の先生が「たまにはアプリで加工した顔だけではなくてノーマルカメラで撮って現実を見ましょう」という発信をしていて、たしかになあと思ったことがある。
アプリで簡単に、そして自然に輪郭を削ったり、パーツの大きさを変えられるいま、無加工の写真はなんだか夢から醒めたみたいに感じる人は多いはず(わたしを含め)。
実際、客観的に自分の顔を見てみたくて、おそるおそるスマホを動画モードにしてすっぴんの顔をレントゲンを撮るようにぐるりと撮影したことがある。あまりのアシンメトリーさに倒れそうになった。
たしかに画面上の「たられば」の美しさを見るのはとても楽しい。
でも、メイクをするのもスキンケアをするのも現実の顔なのだから、自分の顔の現在地を知ることはなりたい顔への打ち手を考えるうえでとても合理的なはず。
スタジオで手持ちの魅力をできるだけ引き出して撮った写真は、自分の顔がいまどこにいるのかをやさしく教えてくれた。ここからどこに向かいたいかを問いかけてみる。
自分の顔は無数にあって、そのどれもを直接見ることはできない。
他者を介して自分の顔が持つふかふかの現在地に立つことは、実在の美しさにつながっている。