4年半ほど住んだ家を後にしてきた。
祖母の家であるそれは、車がないと生活がままならない片田舎にあった。学校へは車と電車で片道1時間以上かかった。
2018年の夏の終わり、母と折り合いがつかず実家にあたる家を飛び出した。当時の自室からはわたしの所有物がすべて運び出され、後にそこは妹の部屋となったことでかつての面影を消し、さらにその後実家自体が顔も知らぬ他人の家となった。
今日後にしてきた家には本や雑誌、CDなど数多のものが残されていて、未だわたしの自室としての形を保っている。帰れる場所。でもおそらく今までのように生活を送ることはもうないであろう場所。
先日「木造のエデン」という連作を投稿した。"木造のエデン"のモチーフとなったのは明日から住む家であり部屋である。野暮なので伏せておくべきなのかもしれないが、この連作はほとんどが虚構というか、あくまで"これからおこるかもしれないこと"、でしかない。わたしはこの部屋がエデンと呼ぶに相応しいものになるように、とこの先の生活への祈りを芽生えさせていたのかもしれない。
そう気づく隣で、今日後にしてきたあの部屋こそが紛れもないエデンだったのだと確信している。
おしまい、と閉じられることで、綴じられることですべてがきちんと美しくなる。その瞬間去来するあの日々の記憶によってもたらされる甘い甘い切なさで、柔く首が絞まって、少し、泣く。失って初めて気づく、ということを人はやんわり非難するけれど、それでもわたしには過去になって自分から切り離されてようやく愛せるものがある。
もう戻れない日々よ、さようなら。
今、どうしようもなく恋しい。淋しい。そしてそれが嬉しい。
後悔はない。わたしは正しく歩んでいる。