先にはっきりさせておきたい。フォーマルな言い方とカジュアルな言い方を分ける利便性は認めるので丁寧語とタメ口は残っても構わないと思う。
尊敬語・謙譲語なんて無くなればいい。すぐに無くなれとは思わないし、使っている人を批判するつもりなんてサラサラない。私もまたまだ使う。
これからも使い続けるべきであるという立場を、さも当たり前かのように続けていくことが問題だ。
これらは身分格差時代の洗脳手段の名残りであって、貴重な義務教育をがっつり割いて子供に教え込むようなものではない。古典の授業で少しやる程度ならまだ理解できる。
1度できた文化を淘汰してはいけないという基本方針がよくない。完全に忘れ去るべきという意味ではなく、歴史の1つとして扱っていくべき。
文面上の記号として残すと言う手段も選択肢としてはアリ。敬語のおかげでセリフ文から登場人物たちの立場がすぐに分かるので情報量としての価値はある。ちょうど発音記号と同じような扱いをすればいい。
書き言葉は電子デバイスで入力するほうが多い時代なので脳の記憶や修正のコストも少なくて済む。
現状ありきの考え方だと前に進めない。
せっかく根付いた文化だから使い続けようなんて、まるで文化を盾にして偏った思想を押し付けているだけだ。
「敬語を使われて嫌な人はいない。だから使うほうが無難」←こんな主張をしてくる人もいる。
これは現状を説明しているだけで反論にはなっていない。その現状を少しずつ変えていこう途いうのが私の主張だ。
確かに今はそうかも知れないので、社会人は敬語を使うほうが良い。ただしそれが未来永劫そうであり続けるべきだと言うのは違う。
1度できた悪い文化は、意識して減らしていかないと蔓延ったままになる。
文化を歴史に残すため、学者たちはロゼッタストーンのようなものに尊敬語や謙譲語の変換ルールを記録する。
一般人はまず、自分に向けては敬語を使っても使わなくてもどちらでも良い、と意思表示することからはじめる。
まずは敬語でもただの丁寧語でもどちらでも良いという風潮さえできしまえば、あとは自然と淘汰されていくのではないか。
若者が敬語を覚えなくなっていくことは喜ばしいことなので、老害がそれを批判してほしくない。