他者としての自分の対処法

re_bartlby
·

何度同じことを考え続けるのだろう。それは、私がどうしたいのか分かっていないからだ。という結末も、いっつも同じだな。

だが、私の人生は素材集めなんだという言葉を獲得できたことが、今の私にはとても大きなポイントになっている。このことを自体に初めて気が付いたわけではない。自分の中でしっくりくる表現が出てきたということだ。

今日素材集めという概念をつかんでから、初めてその話を人にしてみた。結論から言うと楽しい。素材集めも楽しいし、素材を集めて議論するのも楽しいし、俯瞰的にそういうことをしているという話をするのも楽しい。楽しいことだらけや。

それはそれとして、私は生身の人間である相手のことを、自分が楽しむだけの道具にしているんじゃないか、といういつもの内省が今回はあまり起きなかった。これはなぜなのだろうか。こういうことを筆頭に、どういうわけか自分のことを許せるタームなのだ。これがなぜなのかが本当に分からない。分からないのだが、自分の中の他の人格についての考えは少し進んだ。内省を促す自分が今はおとなしいのである。この自分の中の自分、自分の中の他者という考えは前からあったもので、社会的に目指すべきとされる姿になろうとする自分(これを仮称するものが欲しいのだが見つからない。とりあえず「自分S」としておこう)という自分も可視化できていたのだが、このSの御し方を考え続けて、今日思うことがあった。Sは普段休眠状態にあるのだが、何かのきっかけで(このきっかけが何なんのか、何で目覚めやすいのかも考えたい)活動を開始したとき、以前の私の生活であればSを宥めることができた。今はそれができない。これが悩みどころなのだ。Sが存在することも暴れだすことも止められない。しかし宥めすかすことはできる。再び宥めることができるようになればいいし、以前はできていたつまりやり方を知っているのだからそれを踏襲すればいいのだが、そうは上手くはいかない。その方法は他者に依存した不健全な方法だからだ。それを咎めるまた違う自分がいる。うーんどうしたものか。