もう少しノレそうだったし、乗りたかったというのが本音だ。
今日は「交換と贈与」をキーワードに近内悠太のトークショー。近内悠太は、最近『傷と利他とケアの倫理学』で名前を覚えてから気になっていた著述家であるし、「贈与」というワードもホットワードだったので行った。本は東浩紀が帯を書いているし、他にも茂木健一郎と懇意にしていたりと、人間関係で顔をしかめる部分があるというのが正直な気持ちではあったし、「傷」「利他」「ケア」「倫理学」ってそれもう全部乗せやんというちょっと冷めた思いもあったのだが、気になる存在だったので行った。
トーク部分は総じて面白い。結局「交換」と「贈与」の定義が恣意的になっていることや、贈与は根源的に不可能だと思っているのかそうではないのか(恐らくそうではないと思っていると思われる)分かりづらいこと、そもそもシャキシャキ系の人であることなど、首を傾げることも多いが、概念的に対極に位置している交換と贈与が、その根源的不可能性においては共通であるという部分が面白い。私が勝手に感じ取ったことではあるけれど。そして何より、心が疲弊したサイン。予想外の発想が生まれないとき、いつも同じ結論に至るとき、つまりは「これしかないんだ!」となってしまうときは、心が疲弊しているサインだと。これは納得できる点であり、考えていなかった点だ。いつも同じ結論に達してしまうというのは、それこそいつも同じように考えることだけど、それを疲弊のサインだとは思ったことがなかった。コピーエラーを待ち遠しく思っているのは、心の回復を待っているのかもしれない。
であれあば、私が今いつもと違うことを意図的にしているのは回復に向けての動きだということだろうか。でもいつもと違うことをしようという発想は予想外のものではない。予想外とは発生するものなのだろうか?という疑問が今度は湧いてくるな。
「交換と贈与」に直接は関係しないテーマにおいては、勝手に盛り上がって楽しんでいた。テーマの主軸については、全てがそれに取り込まれるようで嫌だった。結論付けるならこうである。