ぶつぶつこねこね独り言

re_bartlby
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自覚していることに気づいたのは、ふとした一言がきっかけである。読んでいる本の話題になったときに、「どうして生きているだけでしんどいこの世の中で、そんなにもしんどい本が読めるのか」という一言。この時、私は「それは体力があるかだ」としか思えなかったし言えなかった。そして、自分は体力があると自覚していることに気づいたのだ。

それ以来、この「体力」や「余裕」といった要素は、私の一大トピックスとなった。私には、生活を営みながら、社会に対して目を向けるだけの経済的精神的肉体的余裕がある。それがない人に対して、同じように社会に目を向けろというのは暴力的ではないか? でも、持っている自分が持っていない人の分まで役割を果たすと考えるのはなんだか傲慢だ。余裕がない人のことを考えると、自分が余裕がない時だって当然あるので、キリキリ動けだなんて言えない。そうやって人を慮っているうちに、大きな声で扇動を図ろうとする勢力もいる。そういう状況の中で、自分はどうしたらいいのだろうと身動きが取れなくなる。というのがいつもの流れだ。私が体力を鍛えた覚えがない、というのも問題を難しくしている。まだこれが鍛えられるのなら、体力をつけたいという人に助言をできるかもしれないが、私はいつの間にか体力がある人間になっていたので、アドバイスのしようがないのだ。(仮に鍛えられたとしても、マッチョな発想になりそうなので嫌だが)

ただ、余裕というワードにはずっと違和感もあった。なぜなら、私だって余裕があるわけじゃないぞ、ということだ。体力はあるにしてもだからと言って余裕が常にあるわけではない。私が他人と比べてしんどいことの触れられるのは余裕以外の要素があるのではないか? とこれまた考え続けていたところ、最近は防衛力と回復力ではないかと考えている。より抽象的になっちゃったな。でもその二つなのだ。しんどいものに触れたとき、それと心理的距離をとれる防衛力、しんどくなった後の回復力、そっちのほうを実は持っているんじゃなかろうか。