職場での(職場に限らないが)世間話はいつも不可解だ。先日は、引越ししないのか、引っ越しを考えないのか、と聞かれた。質問者が引越しを検討しているということなら質問の意図もまだわかる。そういうわけではなく、なんとなく聞いたらしい。まったくもって意味不明だった。よくわからないことをいう、とたまに職場の人に言われるが、私からすればあなたの質問のほうがよっぽどよく分からない。いや分かってはいる。その質問は意図や趣旨といったことが意識されているわけではない、ただの世間話なんだろうと。つまり天気の話だ。
私は世間話ができない。天気の話も苦手だ。どうしてそんなことを話すのだろう、どうでもいいじゃないか、という考えがすぐ出てくるからだ。そんなことを考えないのが世間話なんだろう。世間一般で行われている世間話とは、「お互いに共通の「世間」を持っていますよ」ということを確認するための合言葉でしかない……と思っている。違うのかもしれないけど。仮にそうだとさせてもらって、分かっているのならばそれに乗ればいいのだけれど、乗れないのだ。
人との会話に乗れない。乗れないのか乗る気がないのかは怪しいところだが、とにかく乗れない。乗れないのか乗る気がないのかと二者択一を提示したが、おそらく両方だろうな。ここ乗るところなんだろうな、ということくらいはさすがに経験でわかるようにもなっている。それを平気でスルーしてしまうのだから、乗る気がないといえる。乗る気がない、ということが乗れないということなのかもしれないけれど。
だから私は、世間の人々を尊敬している。皮肉とかではなく。皆私ができないことをやっている人ばかりだ。普通のことができない。いくら普通が相対的で、定まった普通がないとはいえ、どこかの社会に属して生きている以上、その社会の普通がある。私が乗れる普通が組み込まれている社会も過去未来現在のどこかにあるのかもしれないけれど、少なくとも私が属している社会の普通に、私は乗れない。
乗りたいと思ってる、乗れる人生がよかったな。