求めてばかりの日々

re_bartlby
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声をかけられるのを待って、結局こちらから声をかける。人生いつもそんなことばかり。たまには声を掛けられたい、求められたい。と思うことくらいは許してほしい。実際、ごくまれに誘われると、意気揚々と馳せ参じてしまう。

しかし、結局相手とどうなりたいのかが重要だろう。どうなりたいのだろう? 特別な関係になりたいのか。うーん、特別の定義がいまいちわからない。結局私はだれかを支配したいだけな気がする。自分に都合のいいお人形が欲しいだけのような気がする。「論破」を待っているだなんて言いながら、その実お人形を欲しがっているのだとしたら、大した欺瞞だ。

ここで気になったのが、「結局」という言葉だ。この言葉、私は使い過ぎではないだろうかと思った。なぜこの言葉に頼ってしまうのだろう。おそらく、論理が飛躍するとき、飛躍する部分を書きたくない、書くのがめんどくさい、だけでも何となく接続されているように見せたい。そういう場合に使われる、「結局」な気がする。

であれば、「結局」で省略している部分を、「結局」のヴェール剝がしてみようと思う。

誰かの特別になりたいというわけではない。この人と一緒にいたいと求めているわけでもない。欲しているのは特別だという「状態」、一緒にいるという「状態」だと思う。

何が違うのか。一つは相手が誰でもいいということだろう。「状態」さえ確立できればいいのだから。もう一つは、目線を気にしているということだ。その「状態」にあることで、他者に対してアピールできる。トロフィーワイフというやつだろう。誰でもいいからその「状態」さえ確保し、それを見せつけることで、何らかのステータスだけ確保したい。それを維持するために、相手のことは支配したいし、自分の言うことを聞くお人形でさえあればいい。クズだな。自分がクズであることに安心している。そこが一番どうしようもねえよ。

そんな私でも、一応他人を愛したことがある。心から愛したと断言できる。私しかそれを証明できないし、証明相手も私だけではあるが、私は相手を本気で愛した。それゆえに、私は「愛」を知っている。その「愛」の再来を待っている……のだろうか。そんな気はあまりしない。

そもそも愛も一種類じゃないだろう。別の愛をいつか知るかもしれない。求められたいなんて思わず、求めることだけで満たされる愛が。なんだか、求め/求められを基準に考えることがまずもって間違っている気がしてきた。ただ言えることは、求められていないことが肌でわかる、という感覚も、それはそれで何か「面白い」ことがある、ということだ。