チョン・イヒョン『優しい暴力の時代』を読んだ。一編、二編を読んでいるときは、読書会の候補本であったこともあり、大丈夫かこれ、思いながら読んでいたのだが、全編を通して読んだ結果としては、素晴らしかった。明るい作品はない、暗くて希望のない作品だらけではあるから読書会に使うかどうかは一瞬悩んだけど、これを読んでほしい。どんな風に読まれるのか気になるという思いのほうが勝った。この本で読書会に挑む。
自分への諦め、周囲の人への攻撃、意識的/無意識的な罪悪感。それらを抱えながらも、でも生きる。生きている以上は生きていくしかない。彼女彼らは一つや二つの暗さを背負ったくらいでは、死ねないものを抱えているのだから。それは前向きな活力に満ち溢れているわけではない。惨めさに打ちひしがれているわけでもない。ただ生きる。生きるという純然たる事実だけがそこにはある。そういう作品だった。素晴らしい。そういう姿を見て、元気がもらえるとかそういうことではない。彼女彼らが生きているのだから、自分も生きなきゃとかそういうことでもない。ただ、自分の生もまた純然たる事実として、生きなければならないのだ、という気持ちにはなる。「ねばらならない」。暗い生を強制される。それはもはや生存自体が、自分自身に対するやんわりとした暴力になっている、自分を傷つけながら生きているということだ。しかしそれ故に生きておけるという部分も否定できない。「優しい暴力」とは、そういう風に解釈できた。なかなか厳しい作品である。
私は動詞優位の人間なので、生きるということに関しても、生き延びるという言葉を多用しがちだと思っていたのだが、割と生という一文字も使うなということに気づいた。この作品は生きることへの賛歌(というよりも鎮魂歌)というよりは、生に対する鎮魂歌という感じがする。生きていることに対して小説ではなく、生きている命に対する小説。著者はこの本を、通過してきたことに関する証拠だというが、その通過の道すがらにあった一瞬一瞬の生を、確かに見落とさなかったのではないか。この小説が動詞的生きるでなく、名詞的生なのは、そういった瞬間的なものがあるからだろうか。